「天の喜びが地でも」
2025年6月1日 主日礼拝説教梗概
聖書:ルカの福音書15章1~10節
説教:安藤友祥主任牧師
イエス様は自分の元に話を聞こうとして罪人が集まってきたことを歓迎しました。けれども、それを見て否定的な言葉を発するパリサイ人と律法学者たち。イエス様を求め、神の国を求めてきた人を批判されたイエス様はたとえ話で、批判したい人に神様の思いを伝えます。
ここで共通して語られていることは、探す人の熱心と多くの労、犠牲です。そして失われたものは、持ち主にとって大きな価値を持った大切な存在。それこそ近所の人や友人を集めて、同じ喜びを共有したいと招くような出来事です。
律法学者たちが批判したイエス様の行動ですが、イエス様にとって、罪人と呼ばれる人が自分の元に来て、イエス様の話を聞く、神の国を求める、それまでの生き方を悔い改めようとしていることは、喜ばしいことなのだと伝えようとしているのです。ここでイエス様が強調していることは、失われたものが見つかったことの喜びの出来事です。
たとえ話の中では、羊も銀貨も価値のあるものとして語られています。ただ律法学者たちにとって、罪人たちは価値あるものでは無い状況。そのギャップがあるのです。イエス様は教えられました。罪人が悔い改める時に天で大きな喜びがあるのだと。律法学者たちは罪人たちがイエス様に従おうと、弟子になろうと集まってくることに喜べない人々。むしろ批判の種にしています。そしてそれは天での喜びが、自分の喜びではないという事。彼らが従おうと、信じようとしている神様の価値観と自分とのギャップになってしまっています。
イエス様はたとえ話でも失われたものを熱心に探す姿を語りました。99匹の羊はいるのに、9枚の銀貨はあるのに、それで満足しない姿とも言えます。イエス様は罪人が救われることに熱心であり、多くの労を取り、犠牲を払う方です。そのイエス様の思い、価値観を、このたとえを通して見るのです。私たちは、神様がこの失われた魂、罪人の回復に熱心な方であることを知っていたいと同時に、その熱心は私達にも向けられた結果、救いに与っていることを忘れてはいけません。見つけるために犠牲をいとわなかった羊飼いと女性と同様に、神様、イエス様も大きな犠牲をもって私たちを回復させてくださったからです。そして私たちが神様の前に悔い改めた時にも、天で大きな喜びがあったことを知るのです。
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