「かつて」と「今は」

2021年7月25日礼拝説教梗概

聖書:エペソ人への手紙2章1~10節

説教:安藤友祥主任牧師

パウロは2章に入り、手紙の読み手である人びとの「かつて」の状態と今置かれている恵みと救いの状態について確認しますかつては「神様に背くこの世の流れ」「神様から離れさせようとする空中の支配者(悪魔)」「自分が望む肉の欲(肉と心の望むこと)」の束縛の中、罪の中におかれ、死んでいた者たちであった私たち。しかし、神様は憐み深い愛と豊かな恵みのゆえに、キリストにあって罪と死、なにより神様の永遠の裁きの対象であった私たちをキリストと共に生きる者としてくださいました。2:6で触れている事は、1:20でパウロが語っている事とリンクします。神様は罪を赦すだけでなく、キリストと共によみがえらせ、天上にある座に座らせてくださったのです。キリストと同じように、1:21に出てくる権威に勝利した者として生きることが出来る。かつ自分を支配、束縛していた存在に勝利し、罪の奴隷から、キリストの支配の中に移されている。死から命に。キリストの外側から、キリストの内に入れられるという劇的な変化を再確認させます。この大きな恵みに私たちは喜び、神様の愛、その規格外の愛に驚きます。救われた私たちに、かつて支配していた要素が戦いを挑んできます。誘惑をしてきます。それらは私たちを支配することは出来ませんが、恐怖心を刺激してきます。パウロは手紙全体を通して霊的な戦いがあるという事、その事への励ましを書き送ります。すでにキリストの内に入れられ、勝利をしているのだと。世の流れに乗り、空気を読んで生きる楽さを知っています。けれども、その流れが、空気がどこから来てどこへ行き、どんな実を実らすのかに対して慎重でなくてはいけません。私たちは神様にあって、この世界の中、かつての罪の支配ではなく、神様の支配で生きるように選ばれ、救われているからです。私たちはすでによみがえりの命を受けています。かつての罪に死んでいた自分ではありません。けれども、今なお空中の支配者、罪の支配がある世界の中、罪の束縛の中にいる人がいます。救いの為に祈りましょう。

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setachu
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