「人生の土台」

2023年2月19日主日礼拝説教梗概

聖書:ルカの福音書6章43~49節

説教:住友曉伝道師

 イエス様は、「梁と塵」での教えに続くかたちで「なぜなら」と三つのたとえを語られました。ここでの「木の実」「倉」「家と土台」のたとえは、あなたは主イエスに従う真の弟子か、偽善者かという直前の「梁と塵」の文脈の中に置かれています。

  「木」は批判する人の心・本性を指し、「実」はその人の実際の言動を指しています。「実」はその「木」の本性の現われであり、本性に逆らった実を結ぶことはありません。茨や野ばらが茂っている所に行ってもイチジクやブドウは採れません。どちらも、当然のことです。イエス様は、同様に、人においてもその人の心の内にある本質が言動に現れるのだということもまた、反論の余地のない当然のことなのだと言われたのです。換言すれば、言動を見れば、その人の本性が分かり、真の弟子か偽善者かが識別されるということです。

 「倉」の話においては口からでる言葉にフォーカスされています。「倉」の良し悪しは、家柄、環境、地位、名誉、財産などではなく、心の良し悪しだと言われました。私たちは、自分の倉が良い物で満たされていて、そこから良い物が口から溢れ出ていると言えるでしょうか。「良い木」になり、「心の良い倉を満たす」ということは、到底自分の力で整えることの出来ないチャレンジです。そこでイエス様は、「家と土台」のたとえでその秘訣を教えてくださいました。それは「地面を深く掘り下げ、岩の上に土台を据えて、家を建てる」ことです。家とは私たちの人生です。岩とはイエス様の御言葉です。岩なるイエス・キリストの御言葉に耳を傾け、聴き、信じ、蓄え、その御言葉に従い生きる、実践するということです。御言葉は、神様が愛のゆえに主イエスをこの地上に遣わされたことを告げています。御言葉は、その主がカルバリの十字架により私たちの罪を赦してくださり、神の子としてくださって、復活により永遠の命まで与えてくださったことを告げています。「主よ、主よ」と告白した私たちクリスチャンは、この御言葉を信じ、岩の上に土台を築いた者です。この土台から自分の家がずれていないか確認し、繋がり続ける神の民として、御国に向かっての地上の人生を喜びをもって歩む者とされましょう。

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