「目を塞ぐ梁」

2023年1月15日主日礼拝説教梗概

聖書:ルカの福音書6章37~42節

説教:住友曉伝道師

 イエス様は、「裁くな、不義(罪)に定めるな、赦せ、与えよ」と4つの命令を弟子たちに語られました。この命令は、人と人との関わりにおける処世訓のようなものではなく、主を信じるクリスチャンと神様との関係において語られました。イエス様に従う弟子は、神の御子イエス・キリストによって既に神の国の民とされています。もはや裁かれることはなく、罪人とされることもなく、赦され、豊かな恵みを与えられている。主イエスの弟子として生きるのであれば、主に従い、人を裁くことのない、罪人と定めることのない、赦し、気前よく与える神の国の民となるのだ、ということです。

 イエス様がここで「裁くな」、「罪に定めるな」と言っておられるのは、人に対する私たちの態度についての話です。自分中心で物事を判断してしまう心。人の粗探しをしたり、偏見の目で見たりして、口うるさく、常に批判的態度をとるという罪の性質を指摘されたのです。イエス様に従う弟子、キリスト・イエスを信仰する者の姿は、裁いて罪に定めることではなく、神様のあわれみ深さを覚え、相手に心から同情し、赦し、与える。そのような姿であるということです。

 イエス様は、梁と塵のたとえで、「人の小さな罪を見つけて、自分の価値基準で良し悪しを判断するのは、その人の目に梁のように大きな物が入っていて目が見えないのに、人の目の小さな塵を取ってあげようとするくらい滑稽なものだ」と言われました。「小さな塵が見えるくらい自分は良く見えている」、「自分は盲人ではないから盲人の道案内が出来る」、「私は物事が良く見えるから師として人を導くことが出来る」。そう思っていて、自分自身の考えや態度を振り返ることなく、他の人に向かって、「それは間違っている」とか「あなたはこうすべきだ」とか「それは問題だ」と指摘する。そのような人を主は偽善者だと言いました。

 罪の性質ゆえに目に梁が入っている事に気づかない私たち。主は、私たちの目を塞ぐ全ての罪を背負って十字架にかかり私たちの罪を赦し、救ってくださいました。その主のご恩寵にすがり、信じ、悔い改めてこそ、心の目が開かれ、初めて物事が見え、謙遜になり、自分が見えるようになります。目を塞ぐ梁を取り除いて下さいと、ご聖霊の働きを祈り、悔い改め、謙遜にしていただき、愛と恵みとあわれみの主イエス様の命令にお従いする者とさせていただきましょう。

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