「安息日の主」

2022年9月18日主日礼拝説教梗概

聖書:ルカの福音書6章1~11節

説教:住友曉伝道師

 十戒の第4戒「安息日を覚えてこれを聖なるものとせよ」は、創世記の天地創造のわざに由来します。この「安息」と訳されたヘブル語は元々「やめる」「断絶する」「切ってしまう」という意味で、六日間の働きのわざを、七日目にはやめる、断ってしまう、との強い表現です。

  ユダヤ人にとってこの命令を守ることは、単に休息の時ではなく、“自分たちは神の民イスラエルなのだ”とアイデンティティーを確認し、しるしとして表すものでした。その第4戒の詳細運用規定ともいうべきミシュナー(口伝律法)には安息日にしてはならない39もの規定が定められ、ユダヤ教律法学者とパリサイ人は特に厳格にそれを守り行い、人々に教えていました。今日の箇所では、彼らは、安息日にイエス様の弟子たちが麦の穂を摘んで食べたことと、仕事をしてはならないのにイエス様が人を癒されたことに対して律法違反であると糾弾しました。イエス様は、律法を与えて下さった神様の目的から外れ、形式的に「~しないこと」ばかりに縛られている彼らに反駁し、彼らのイエス様に対する憎悪は更に増長します。

  今日の二つの安息日の出来事を結節するように「人の子は安息日の主です」とのみことばが置かれています。このイエス様の宣言は、やがてのイエス様の十字架への道へと繋がっていきます。そしてイエス様の十字架の死と復活によって、私たちは、罪赦され、罪と死の奴隷状態から解放され、自由とされて、神の国の民として本当の安息、永遠の安息が与えられるようになるのです。

 今、私たちは日曜日を主の日と呼び、主日礼拝をささげています。「安息日の主」という主の宣言から、主の日は、主が与え、主が招き、主が主体の安息の日なのであるということをもう一度確認いたしましょう。

 また、9節の律法学者やパリサイ人へのイエス様の質問は、今に生きる私たちへの問いかけでもあります。主の日を、神様の目に適う聖なるものとするためにどの様に歩むのかと。この質問にはイエス様の教えが含まれていました。神様が与えて下さった律法の目的は、律法学者やパリサイ人たちのように、「何々をしてはならない」との消極的な教えではなく、主と共に歩み、隣人を愛して、善を行い、いのちを救う積極的に歩むことだと。

 新たな1週間、そのように主の愛と恵みに積極的に押し出されて歩んでまいりましょう。

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setachu
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