「御霊の力」

2022年2月13日礼拝説教梗概

聖書:ルカの福音書4章14~21節

説教:住友曉伝道師

 荒野での試みに勝利したイエス様は聖霊の力を帯びてガリラヤ伝道に乗り出しました。
安息日毎の諸会堂を巡っての伝道活動によりイエス様の評判は周辺一帯に広まりました。
やがて地元ナザレにお帰りになりましたが、奇抜な伝道方法ではなく、「いつもしているとおり」安息日に会堂で聖書を読み、語るという、普段通りの方法で始められました。安息日に礼拝を守り、御言葉に聴き、賛美し、祈り、聖霊に導かれて生活する。そのような歩みが、聖霊の力を帯びて、いつものとおりの習慣としてなされるところから神を証する働きが始まります。
イエス様はイザヤ書をご自身の使命と重ねて朗読しました。預言されたメシア=キリストが果たす役割は貧しい人に良い知らせ=福音を伝えることでした。ルカは「福音を伝える」という動詞形を用いて福音を「神・罪・救い」のような知識に終わるものではなく、それらを含んでよりダイナミックな、動的・包括的なものとして見ているようです。即ち、主イエスと共に飛び込んで来た神の国、キリストの苦難や十字架、復活を含む全生涯が福音であり、同時に私たちに能動的な応答を求めるものだと捉えています。その福音によって、罪が赦され、罪と死の束縛から解放され、霊の目が開かれ、見えなかった真理が見えるようになり、神の子とされるのです。
イエス様は朗読の後、そのことが「今日」実現したと宣言されました。短いながらもイエス様ご自身が語った最初の福音説教です。イエス様が語り、ナザレの聴衆が耳にした福音は生きて働き、「今日」を生きる私たちへも語り掛けます。聖霊に満たされたイエス様が語られた福音の説教を信じ受け取り、救いの御業を受け取るには私たちもまた聖霊の深い恵みに依り頼む必要があります。
礼拝=説教ではありません。聖霊の働きを祈り求めて礼拝に臨む。礼拝を通して神の栄光を現わし、礼拝の中で罪が示され、罪赦される恵みに目が開かれ、祝福の祈りのうちに新たに遣わされて行く。「いつもしているとおり」の礼拝も御霊の力によって豊かで生き生きとしたものになります。
また、福音宣教をイエス様は御霊の力によって始められました。その福音を伝えるよう召されている私たちもまた、御霊の力に満たされ、拠り頼む必要があるのです。

投稿者プロフィール

setachu
setachu
説教梗概

前の記事

「光の子として」