「礼拝する共同体」

2023年2月26日主日礼拝説教梗概

ヨハネの福音書 10章23節

説教:安藤友祥主任牧師

「教会は、聖霊によって召し出された神の民、主イエス・キリストをかしらとするからだであり、羊飼いなる主の御声にのみ聴き従う羊の群れである。地上の教会は、再び来られる主を待ち望みつつ礼拝し、みことばを説教し、聖礼典を執行し、戒規を重んじ、聖霊の力によって全世界に福音を宣べ伝える。」

「伝道」:大宣教命令にもあるように、福音宣教こそが、イエス様の弟子たちの存在目的です。

「信徒の信仰教育」:イエス様は教育的命令も与えられました。生まれたばかりの信仰を、聖霊の助けを借りつつ、聖書の知識や、福音を理解し、成長していく必要があります。ちゃんと教育訓練された信仰の土台の上に福音宣教は成り立ちます。

「社会的交わり」:神の民である教会には信者に対しても、未信者に対しても、愛とあわれみの行為を示す責任があります。イエス様ご自身が疲れた人、傷ついた人に対して愛を持って関わられたように、その弟子である私たちは、それにならうものとして行動するのです。

「礼拝」:教会の第一の使命は神様の栄光を現す事です。神様に栄光を帰する主日礼拝こそが、教会活動の中心です。私たちは神様を礼拝するために救われました。礼拝をどのように認識し、参加しているのか?という事は、信仰生活の根幹にかかわる事柄です。大前提として、礼拝は神様が招かれる、神様の主権がそこにあるものです。礼拝とは神様の栄光を私たちが現わす行為です。その最高の価値を現わすためにキリストを通して私たち自身を神様に捧げます。霊の生贄として私たちを捧げる、献身の生活が神様への生贄になるのです。

 礼拝の中心は聖書朗読にあります。イエス様はご自身のことを羊飼いと表現し、私たちを羊であると言い表しました。唯一の牧者である主の御声だけが響いているならば、主の羊が集まり、主の羊の群れとなります。

 礼拝は精一杯捧げるものです。礼拝は救われた者の義務です。私たちを愛し、私たちが愛している神様に出会うときです。まず神様が礼拝へと招かれている神様の選び、主権を思いたいのです。私たちは神様を愛していると告白します。そして私たちは、心から礼拝を捧げる事で神様を愛するのです。

参照:マタ28:19~20,使徒1:8b,Ⅰコリ14:12,エペ4:11~12,マタ28:20a,申命10:17~19,ロマ15:6,ロマ8:26,ヨハ4:24,Ⅰペテ2:5,マル12:30 

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