「平和のために」

2022年3月6日主日礼拝説教梗概

聖書:マタイの福音書5章9節

説教:安藤友祥主任牧師

 罪の支配が依然広がるこの世界の中にあって、その世界のために祈る事を聖書は励まします。自分たちを苦しめている、迫害している人々のためにとりなす祈りは祈りづらい祈り。祈りから省きがちな祈りだとも言えます。争いを率先して起こしている人へのとりなしの祈りは祈れないかもしれません。けれども、その人を取り除く祈りよりも、祈るべきはその人へのとりなしの祈りだという事を思わされます。
 指導者たちが神様に与えられた権威の誤った用い方をする時に、私達はその事にアクションしなければならず、その権威ある立場の人のためにとりなし、祈るという立場に置かれています。
 荒野での悪魔の誘惑は、権威や貪りの罪への誘惑です。悪魔の誘惑に心奪われる時、そこに人のものを自分のものとしたくなる。略奪への思いに駆られます。欲しいと願うものを与えてやろうと語り掛けてくる悪魔に従う時に、神様の方法ではない、悪魔が喜ぶ方法でそれらを手に入れようとしてしまいます。悪魔の支配の中に置かれるなら、神様にある平安が無くなり、不安から来る「もっともっと」に繋がってしまう。この悪魔からの誘惑、権威や力、富への誘惑、貪りに私達も気を付けると同時に、これらの誘惑から指導者が守られるようにとりなし、祈る必要があるのです。
 イエス様は平和の君と呼ばれる方です。私達教会は平和の君によって救われ、神様の子とされました。平和の君に従う者として、平和を作り出す者として生きなければなりません。私達は世界の平和のために祈ると同時に、私達が置かれている場所の平和のために祈ります。私達は平和のために祈ると同時に、平和を作るものとして救われている事に目を向けます。平和を望む者を超えて、平和を作る者として召されていることを覚えたいのです。世界の平和のために祈るその人が、自分の置かれている場所で平和を作り出していないならばどうでしょうか。私達の平和を願う祈りは世界に向けると同時に、自分が生活する場、置かれた場所にも向ける祈りです。同時に、そこに平和をつくるものとしてイエス様によって遣わされています。

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setachu
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