「キリストの勝利宣言」
2024年2月25日主日礼拝説教梗概
ヨハネの福音書 16章16~33節
説教:安藤友祥主任牧師
イエス様は弟子たちにこれから起こることについて教えられました。けれども、これを聞いた弟子たちは誰も理解すべきことに到達出来ていない状況でした。イエス様は、様々な角度から、16節で言われたことを弟子たちに教えられます。イエス様はご自身の十字架の出来事で弟子たちは涙を流し、嘆き悲しむ。それとは対照的に世は喜ぶと教えます。けれどもそれはイエス様が復活されるまでの短い期間、しばらくの間です。復活のイエス様。勝利者としてのイエス様に出会った時、弟子たちの悲しみは、喜びに変わるのです。
イエス様は、苦しみから解放される喜びを味わう前に経験する苦悩を出産に例えます。出産のたとえは預言書でも、イスラエルが地上の敵から解放され、その結果始まる新しい生活を語るときに使われます。イエス様も、弟子たちが体験する苦悩。その理由である自分が去って行くことが、新しい時代の始まりを指し示す出来事に重ねて教えています。
イエス様はイエス様の名によって祈る事を教えます。イエス様の名によって祈るとは、イエス様の目的に沿って祈るという事。これは、なぜそれを祈り求めているのか?という祈りの動機も探られる言葉です。祈ったものが与えられた結果、どのようになることを願っているのか?そのことを神様も喜ばれることなのか?神様の素晴らしさを現すものなのか?そのような祈りになっているのか?と探られます。と同時に、そのような祈りならば、求める時に与えられるという喜びの約束です。
弟子たちはイエス様に信仰を告白します。けれども、弟子たちは、ここで自分たちの信仰の無知さを現しています。弟子たちは自分たちがどれほど堕落しているのかを理解していませんでした。弟子たちは、この信仰告白の言葉にもかかわらず、イエス様の逮捕の瞬間に逃げ出し、散り散りになってしまうのです。大切なことは、ここで弟子たちの信仰の不十分さが示されていますが、イエス様が弟子たちに向けている感情、言葉は責める言葉ではなく、愛と平安の言葉であることに目を向けたいのです。イエス様は弟子たちの信仰の限界を知っておられました。そして知っているからこそ、平安の言葉をかけられます。弟子たちの現実の認識も不完全であり、信仰も不完全でした。けれども、そんな弟子たちをイエス様も神様も愛されたのです。