「目が開かれた者」

2023年9月3日主日礼拝説教梗概

ヨハネの福音書9章13~34節

説教:安藤友祥主任牧師

イエス様によって生まれつきの盲目が癒された人。人々はその人をパリサイ人のもとに連れていきます。癒された本人にも何が起こったのか分からない。この神様のわざとしか思えない出来事を、どのように受け止めたら良いのかと教えを請いに行きます。パリサイ人達は彼に起こった事を聞き、意見が分かれます。イエス様が癒しを行ったのは安息日。安息日を破るような人物が神様から遣わされた者であるはずがないという意見。盲人の目を開くことが出来るのは神様だけ。これまでにイエス様が行ったしるしの数々からも、神様が遣わされたのだと言いう意見。イエス様に対する評価を理由にパリサイ人達の間に分裂が生まれます。

 パリサイ人たちは目が見えなかったのが見えるようになった事実を否定しようと、癒された人の両親を呼びだし確認しますが、生まれつき目が見えなかったことが否定できない。頑ななパリサイ人は再度癒された人を呼び出して問いただします。またパリサイ人達はその中でイエス様がどこから来たのか分からないと証言します。宗教指導者なら教えてくれると思っていたのに、神様のみわざがなされているのに、それを行った方がどこから来たのか分からない。パリサイ人は自分たちの霊的盲目を言い表します。対して癒された人はイエス様が神様から遣わされた方だと大胆に証しします。
 
 イエス様がなされたことを、どのように受け止めるのか?それは世の光である方をどのように受け止めるのか?ということです。霊的盲目から受け入れられず背を向けるパリサイ人の姿があり、霊の目が開かれ、世の光だと認識しイエス様を証しする者として変えられている癒された人の姿があります。ヨハネ1:17にあるように、パリサイ人が重んじている律法の先にある恵みとまことはイエス様が実現されました。霊的な盲目はイエス様によって癒され、イエス様こそ神様であり救い主であるという事を知ることが出来ます。

 恵みの出来事が目の前で起こっているのにそれを受け入れられず、結果神様を拒否してしまう罪の支配の姿をパリサイ人に見ます。彼らは神様に従っているつもりで神様との距離が開いている。癒された彼は会堂を追放されますが、結果として神様に近づく経験をします。彼はイエス様が9:4で言っているイエス様を遣わされた方の働き。世の光を指し示す働きをする者に変えられました。

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