「復活が希望」

2022年11月13日主日礼拝説教梗概

コリント人への手紙第一15:12~26

説教:安藤友祥主任牧師

 教会は、イエス・キリストの復活。そしてやがて来る終わりの時の復活を信じています。イエス様の十字架の出来事、その死は、私達の罪の身代わりとなって死なれたという事。けれども、死んで終わったのではなく、復活された。死に打ち勝たれたという事を信じています。

 教会に現れた「復活はない」という主張。それが本当ならば、イエス様も復活していない。私達の復活も無い。そればかりではなく、結局は死の力に勝つことが出来ず、死の先には神様の怒りの裁きが待っている。イエス様の死と復活によって罪の赦しを受けるという、救いの出来事の否定につながり希望がありません。

 しかしパウロは反対者への「もし」という言葉を使って、彼らの主張の危なさを伝えた後に、はっきりと宣言するのです。15:20「しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。」パウロは復活は事実であると主張します。パウロは事実、復活の福音に活かされていたのです。復活されたイエス様によって実現した救いの出来事。罪の赦し。それらによって、全く新しい世界が、生き方が始まった事をパウロは体験していたからです。パウロは復活のいのちに生きる希望、喜び、力に活かされていたのです。パウロは自分に働かれている神様の力を実感し、その事を根拠に「イエス様は確かに復活されたのだ」と宣言する事が出来たのです。

 聖書は「死」というテーマに直視させ、我々は向き合わされます。死とは何か?ということに聖書は答えを出します。死は罪の結果の裁きであると。神様の敵であると。パウロは言います。イエス様は復活されただけではない。死をも打ち破られる方であると。

 私達もやがては死ぬ存在です。未だに私達は、私達を惑わす死の影響を受けてしまいます。ですが、すでに復活の希望が与えられています。死で終わりではない。死の先がある事を聖書はハッキリと語っています。悲しみも痛みも無い世界が完成する希望が与えられています。教会には「もし」や「もしも」ではなく、「たしかに」と言える希望が与えられています。私達が体験する苦しみ、悩み、痛みは死だけなのか?と考えたら、そうではないことを私達は知っています。先の出来事だけではなく、今を生きる新しい命、新しい力を与える方、それがイエス・キリストです。

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