「見よ、この人だ。」

2024年5月5日主日礼拝説教梗概

ヨハネの福音書 19章1~16節

説教:安藤友祥主任牧師

 

 

 ピラトによるイエス様への尋問が続く中、ピラトはイエス様を釈放しようと働きかけます。と同時にイエス様への拷問が始まります。鞭打たれ、嘲られ、痛めつけられるイエス様。ローマ兵による暴行を受けた後にイエス様はユダヤ人たちの前に連れて来られます。ピラトは弱りはてたイエス様を見せ、反逆を企てるような人物ではないこと。またユダヤ人たちの同情を誘うとしたのかもしれません。けれども、ユダヤ人たちのイエス様を殺したいという思いは変わらず、十字架につけろという叫びに変わります。

 ユダヤ人たちはローマ皇帝への反逆と言う政治的な理由での死刑求刑ではなく、自分を神の子としたというユダヤの律法違反と言う宗教的な理由での死刑求刑に切り替えます。ピラトはイエス様がどこから来たのか?何者か?と言う本質的な問いかけをしますが、イエス様は沈黙を守られる。ピラトは自分の持っている権威を主張しますが、その権威も神様から与えられたものだとイエス様は教えます。何とかイエス様を釈放したいピラトでしたが、ユダヤ人の言った「イエスを殺さなくては、あなたはカエサルに背く存在だ」という言葉に押し負けてしまい保身のためか、イエス様を十字架にかけることを了承します。

 この一連のやり取りの中で、ユダヤ人指導者たちも、「私たちの王はカエサルの他にはいない」と神様を王とする共同体、イスラエルとしてのアイデンティティを失う発言をします。彼らは自分たちの殺意、目的達成のために、自分たちが捨ててはいけないものを捨ててしまう失敗を犯すのです。

 ピラトが「見よ。この人だ。」と言った時のイエス様の姿は弱り切り、頼りなく、痛々しく、惨めな姿でした。確かにそこには、この世的な視点で言うところの私たちが憧れるような見栄えやカッコよさはありません。けれども、そのような、人が馬鹿にするような、惨めとも言える王の姿のイエス様を、私たちは主と呼び、従うと告白しているのです。そしてその姿は、私たちのために痛みを負われた姿であり、私たちが痛みを負わせた姿です。私たちの罪が赦されるには、イエス様が私たちの身代わりとなり、犠牲にならなくてはいけなかった。イエス様が犠牲となられたから、私たちに命が、救いが、与えられた。これは教会が大切にしている福音のメッセージです。

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