「弟子たちの失敗」

2024年9月1日主日礼拝説教梗概

ルカの福音書 9章37~50節

説教:安藤友祥主任牧師

 

 変貌山の出来事の次の日、下山されるイエス様を、非常事態が待ち構えていました。一人息子が悪霊につかれた父親。山に登らずにふもとで待っていた弟子たちには「すべての悪霊を制する権威」を与えられていたのに悪霊を追い出せず失敗した弟子たち。状況を見て嘆くイエス様。そして悪霊を𠮟りつけ追い出す。この出来事に驚き、神様の偉大さを讃える群衆。その騒ぎの中、イエス様はまたしても「人々に引き渡される」と受難の予告を語られます。その言葉が理解できず、受け入れられない弟子たちの姿があります。

 続いて弟子たちの議論が書かれます。「誰が一番偉いのか?」彼らは野心にあふれた人たちでした。イエス様はそんな彼らに、彼らが価値が無いとみなす子どもを見せ「イエス様の名によって受け入れるべき対象」として教えます。一番小さいものが一番偉大であるという逆転の価値観を弟子たちに教えられるイエス様。

 次にヨハネから、弟子たちが失敗したイエス様の名による悪霊追い出しを成功している、自分たちの仲間にならなかった人を注意したと聞くイエス様。主はヨハネが指摘した人を受け入れられたのです。その人は仲間ではないかもしれない。ただ、敵でもなく、味方なのだと。

 福音書のこのセクションは弟子たちの失敗に焦点を当てています。ここで弟子たちが見せる姿は、悲惨なものです。「信仰がない」と言われ、悪霊払いに失敗し、イエス様の受難についてのメッセージを理解できず、自分の地位をめぐっていがみ合い、自分たちの働きが成功しなかったところで成功した人を支配しようとしています。

 弟子たちは、自分たちだけの特権と名誉を守ろうとし、イエス様の名によって行動する権威を主張し、排他主義によって自分たちの地位を確保しようとしていました。そんな弟子たちにイエス様は教えられるのです。独りよがりや自己主張よりも、むしろ慎み深さが、イエスに従う者としての、弟子としての特徴となることを。

 非常にがっかりする弟子たちの姿を見て、彼らを評価しようとしてしまう、我々も、弟子たちと同じ場所に立っていることが見えてしまいます。そのような弟子と一緒に行動しつつ、諦めるではなく、大切な言葉を語り、教え続けられるイエス様の姿を、そして彼らを私たちを救うために前に進まれるイエス様の姿を見ます。

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