「隣人は誰か」
2024年10月13日主日礼拝説教梗概
ルカの福音書 10章25~37節
説教:安藤友祥主任牧師
律法の専門家がイエス様に質問しました。おそらく彼はイエス様から何か新しく教わろうとするような態度ではなく、イエス様の答えを聞いたうえで、試そうとしたり、自分の意見や立場を正当化しようとする思いがあった事を思わせます。なかなか強気な人物です。
彼は「永遠のいのち」に関連する質問をしました。「何をしたら受け継げるのか?」と。イエス様は質問返しをします。律法には何と書いてあり、あなたはどう読んでいるのか?と。彼は、神を愛する事。隣人を愛する事を答え、イエス様も、それは正しいと答え、それを実行しなさいと答えました。彼は正解を知っていました。彼はそのように出来ていると考えていたのでしょう。彼は追加の質問をします「私の隣人は誰か?」と。イエス様はたとえ話で答えられますが、専門家の質問はどれも、真理を分かっているようで分かっていない質問でした。永遠のいのちも「何かをすれば」報いとして受け継げるものだと考え、「隣人は誰か?」と質問することで、隣人ではない人々がいると、線引きしようとする思いが彼にはありました。
イエス様は敵対関係であるサマリヤ人がユダヤ人に憐れみをあらわすという、想定外の出来事のたとえを語り、専門家に聞きます。「誰が隣人になったのか?」と。専門家は「サマリヤ人」とは答えず、「あわれみ深い行動をした人」と濁します。律法の専門家は「隣人とは誰か」と民族や立場などの線引きで隣人の定義が出来ると考えていました。けれども、イエス様はそのような視点ではなく、「隣人になった」と行いや行動における隣人の定義を示すのです。憐れみとは、他者の状況に共感し、その人のために行動しようとすること。敵だと感じるかもしれない。関わりたくない相手かもしれない。けれども、その人があわれみを求める時に関わることで隣人となっていく。神様から「愛しなさい」と命令されている対象の隣人になるのです。
この「隣人を愛しなさい」とは、神様からの命令だという事を忘れてはいけません。彼は線引きをすることで、この命令を自分が守れるものに変えようとしてしまっていました。専門家が最初に気づくべきは、神様の思いをわかっていないという事、自分の中に愛がないということ、そして神様の愛が必要だという事です。私たちを憐れみ、隣人として来てくださったイエス様に目を向けるのです。
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