「食卓にて」

2025年1月12日 主日礼拝説教梗概

聖書:ルカの福音書 11章37~54節

説教:安藤友祥主任牧師

 

 エルサレムでの受難への旅の中にあるイエス様。あるパリサイ人に食事へと招かれます。当時、食事の場は意見交換の場や活発な議論の場としても用いられていました。ただ、この時の食卓で巻き起こったのは、「わざわいだ」と言う言葉を連呼しつつ、イエス様からパリサイ人、律法学者たちに対する痛烈な批判とも言える言葉でした。

 きっかけはイエス様がきよめの洗いをしないで食卓についたことにその家の主人が驚いたこと。イエス様の最初の批判はパリサイ人たちのしきたりや生き方に関する批判でした。代々の言い伝えによって、律法には無い決まり事を創作していきました。外的なきよめに集中しているが、その内側、自分の中にあるものの穢れに目を向けていない在り方を批判されるイエス様。本来律法において大切にすべき神様への愛をないがしろにし、細かい規定に心を向けすぎている姿、また自尊心や虚栄心を指摘されるイエス様。結果そのような在り方は、関わる人々を穢し、神様から引き離していると批判する。その様子を見ていた律法学者が割って入ります。

 律法学者は律法を守って生きようとするパリサイ人達が律法に関して教わっている人々。イエス様は律法学者に対しても批判の言葉を並べます。本来の律法の目的、意味をないがしろにして、どんどん厳しいものにしていった律法学者。そして教えたことが守れない、出来ない人は批判するが、そこに励ましなどは無い姿をイエス様は見ていました。彼らの教えには、律法の目的、神様への愛がどこにもありませんでした。そして、先祖たち同様に神様からの言葉を聞かずに拒絶している在り方を指摘し、人々が神の国に入ることを邪魔していると批判します。

 イエス様は徹底的でした。相手が不快になると分かりつつも伝える。なぜ、イエス様はそうされたのか?彼らの現実を知って欲しい。自分たちに目を向けてほしいと願う。そして、示されたことを悔い改める事への招き、わざわいな生き方から離れる事への指摘と招きがあったと言えます。ここに現れている偽善 、虚栄、無理な要求 、不寛容、排他主義などの性質を私たちも持っています。そして、イエス様は、それを見逃す、放置する方ではないことが見えてきます。ここにあるのは、ただ目の前の魂の現実と真剣に向き合うイエス様の姿です。

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