「究極の二択」
2025年7月13日 主日礼拝説教梗概
聖書:ルカの福音書16章1~13節
説教:安藤友祥主任牧師
イエス様は弟子たちに教えるために一人の管理人のたとえを話されました。そしてたとえを語られた後、「この世の子ら」を賢いと褒めます。この世の子らは、この世の支配、価値観で生きている人々。それに対する光の子は神様の価値観、神様の支配で生きている人々と言えます。この世の人々は、世の仕組みを理解し、それを自分たちの利益のために利用します。自分がこの世界で生きていくために必要な知恵を絞り、生き抜こうとしています。その生き方は、この時代、この地上での生き方に関しては、光の子よりも賢く立ち振る舞っています。彼らは、この世のことしか考えていないので、物質的な富を地上の将来に備えるために用います。では、この地上が全てではないことを知っている光の子らは、この地上の範囲に収まらない、先々のことを考えてどのように生きるのが賢いことなのか?神様の支配を知り、富を永遠の将来に用いるとはどのような事か?とイエス様は弟子たちに考えさせようとしていると読めます。
不正な管理人は自分のお金を一切使いませんでした。主人の財産を自分のために用いていました。私たちも与えられているものはあります。この地上で与えられているものは、それは神様から託されたもの。私たちが与えられているものも、究極的には自分のものではなく、神様から委ねられているものと言えます。神様から委ねられているものを用いて、必要な備えをする。そのような生き方、お金の使い方をしなさい。言うなれば、私達は神様の所有物を管理する者に過ぎないのだから、所有物を使って人々に仕えなさいという生き方に招いています。
ただ、富を自分のものと考え、そこに執着してしまうならば、時としてこの世の富は、私たちの神様になってしまうことを警告しています。お金ももちろん大事です。お金がなくては生きてはいけません。ただ、そのお金、富、財産が、自分の中でどのような位置を占めるのか?どのような存在になっているのかを注意深く考えるようにとイエス様は言います。
今回は富、財産に目が向けられる箇所ですが、この世における様々な価値のあると思っているものが、神様の価値観で見るときに、ズレてしまっていることもあるかもしれません。私たちは、与えられていることをどのように考え、用いていくのでしょうか?
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