「喜び祝うのは当然か?」
2025年7月6日 主日礼拝説教梗概
聖書:ルカの福音書15章11~32節
説教:安藤友祥主任牧師
イエス様の元に集まって来た罪人たちを批判するパリサイ人達の出来事。それを受けてイエス様は、たとえ話を語られました。このたとえ話の締めくくり部分では、父親が「当然ではないか」という父の価値観の提案をしてきます。私たちは、その父の価値観を「当然」と考えられるのか?それがチャレンジされるたとえ話です。では、何が当然なのでしょうか?
弟息子の突拍子もない願い。父親からしたらひどい仕打ちを受けているのと一緒です。それでもなお、弟を縛り付けるのではなく、思うように、自由にさせます。ただ散財と飢饉を経て弟は、落ちるところまで落ちてしまった。死の直前で弟は我に返り、父のもとに帰る決心をします。帰る弟を父は見つけ、走り寄り「息子と呼ばれる資格はない」との言葉を否定するかのように行動します。弟息子は雇人という新しい関係が必要だと考えていましたが、父はそうは考えていなかった。弟息子が父と和解するために必要だったこと。それは我に返り立ち上がって父のもとに帰ることでした。変わらずに愛していた息子が帰って来る。それが父の喜びだったのです。
弟息子の回復をきっかけとして今度は兄息子が関係の断絶に陥ります。兄の言い分から、父と一緒に居るが、心の中では不満や苦い気持ちを抱え、父の思いを分かっていない生活でした。弟も兄も、自分が元々いた、置かれていた状況の恵み、素晴らしさに目を向けられず、自分が抱える不満にばかり目が行き捕らわれてしまっている。父の愛も本当の意味で知らずに、理解せずにいました。そんな二人の息子を父は愛しています。
このたとえ話、兄も弟も悔い改めるべきことがあります。自分が頑張っていると、それを基準にして、自分の基準に当てはまらない人をさばいてしまうかもしれません。頑張っている自分をちゃんと評価してもらえないと感じて神様に不満を言ってしまうかもしれない。自分としては順当な訴え。けれども、それが独善的になってしまう時に、それは必要な悔い改めがあるのだとイエス様は語ります。これこそが、イエス様がこのたとえ話を始めた理由です。
イエス様はパリサイ人たちに挑戦します。神様が愛し受け入れている人々を、受け入れること。そして、自分たちの行動が、独善的であり、人を自分の基準でさばいていたことを悔い改め、神様との関係を回復することを。
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