「もっと信仰が必要か?」
2025年8月3日 主日礼拝説教梗概
聖書:ルカの福音書17章1~10節
説教:安藤友祥主任牧師
イエス様は弟子たちに言われました。「つまずきが起こるのは避けられない」と。躓きとは、イエス様、神様に対する信仰の不信。神様から離れてしまう。イエス様に従う事をやめてしまうこと。と言えるかもしれません。イエス様ははっきりと言われます。「避けられない」どうしても躓きは起こってしまう。けれども、人を神様から離れさせる人、行動は災いであり、裁きが大きいのだと教えられます。イエス様は言われます。「自分自身に気をつけなさい」と。私たちは気を付けないと、時として、神様と人とを離してしまう交わりを持ってしまう、作り出してしまうかもしれません。「自分は大丈夫」とのおごりが私たちの足もとをすくいます。イエス様はこの忠告を、弟子たちに向けて語られたという事をしっかりと覚えておきたいのです。
3節後半から人を赦すことに関しての教えが始まります。仲間が罪を犯したら、戒め、本人が悔い改めるならば、赦しなさいと。犯した罪を戒めることも、その相手を赦すことを前提とした戒めでなくてはいけません。ただ、責めて終わってはいけない。そこに赦しと和解を目的とした行動でなくては、攻撃になってしまうからです。そして、いくらでも赦せと教えています。たとえ1回だったとしても、赦すことの難しさを私たちは知っています。イエス様は、それを、いくらでも、どこまでも赦せと言われる。弟子たちは困ってしまい5節の言葉を伝えます。弟子たちの結論は、今のままじゃ無理。自分には出来ない。信仰が足りない。増やしてくださいと。私たちも同じ気持ちになるのではないかと思います。
弟子たちの求めに、イエス様はからし種一粒ほどの信仰があるならば、不可能と思われることが実現するのだと言われます。信仰が足りないと言っているけれども、それを行うだけの信仰は、すでに持っている。今でも出来るのだと弟子に教えます。私たちは信仰の多い少ないを気にしてしまうかもしれません。けれども、イエス様は、違う視点を与えます。少ないとか、足りないではなく、信仰は信頼して行動に起こすかどうか?用いるか?だという事です。そして、ここでイエス様が言われることは、私たちの義務だという事です。義務と聞くと重く苦しいと感じます。ですが、私たちが神様に従う動機は、まず私たちに示された愛と赦しへの感謝です。赦せる生き方を与えてくださいます。
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