「ヒゼキヤに学ぶ」

2025年9月21日 主日礼拝説教梗概

聖書:第二列王記19章14~19節

説教:安藤友祥主任牧師

 

 ヒゼキヤは神様の目にかなった行いをし、偶像礼拝を取り除きました。そして神様もそのようにするヒゼキヤと共におられ、多くの成功を与えます。その後、アッシリヤが南ユダにも攻め込んできた時、アッシリヤの将軍ラブ・シャケは、ヒゼキヤが信頼している神様に対して、本当に信頼できるのかと嘲り、18:25では、自分が神様からユダを滅ぼすために遣わされてきたと言います。ラブ・シャケは神様の名を使って、自分がしようとしていることを正当化しようとします。さらに、ヒゼキヤに騙されるな、自分たちの言葉を聞け、神様が救い出してくださるなんて言葉に耳を貸すなと重ねます。実際アッシリヤによって滅ぼされた国々の神々は、その国々を守ってこなかったではないかと。たしかにここで言っている事は事実です。けれども、他の神々と聖書の神様を一緒にまとめて語ってしまっている時点で彼は間違ってしまっています。

 この言葉を受け、ヒゼキヤは預言者イザヤに祈りの要請をします。これまでの王様なら、他国に協力の要請をするなど、人の手による解決をまず探っていたはずです。けれども、人間的に解決しようとするのではなく、まず祈るという事、イザヤにも祈りの要請をヒゼキヤはしたのです。ここで起きている問題は、ユダ王国が攻められているという問題と同時に、ユダの神様が冒涜されている二重構造になっています。

 ヒゼキヤが祈った祈りにヒゼキヤの神様への信仰が現れています。天地を作られたのは神様であるという事。生ける神様は神様だけだという事。今ユダを救ってください、その事を周りの国が見て、神様こそ真の神様であると知るでしょうと。祈りの結果、神様はイザヤを通してヒゼキヤに救いを約束します。そしてアッシリヤの王セナケリブには、生きる神様を蔑んだ裁きが下されます。

 このヒゼキヤは20章で失敗を重ねます。私たちもヒゼキヤのように、危機の中で信仰を働かせますが、平安が与えられた時にスキを見せてしまう弱さを持っています。私たちは、良い面においても、悪い面においても、ヒゼキヤから学ぶことがあります。ヒゼキヤの良い部分を知り、そのように生きられるように。またこのヒゼキヤの失敗を知り、そうではない歩みを求める。聖霊によって、そのように生きられるように私たちは助けを祈り求めていきたいのです。

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