「なぜイエスに求めるのか」
2025年10月5日 主日礼拝説教梗概
聖書:ルカの福音書18章31~43節
説教:安藤友祥主任牧師
31節、イエス様は弟子たちに受難の予告を語られます。9章では同胞のユダヤ人指導者に言及し、ここでは異邦人もイエス様の死に関わる。それだけでなく、「異邦人に引き渡され」という言葉は、ユダヤ人たちにとって捕囚を思い起こさせる言葉です。神様が異邦人を使って罪の裁きを行われた出来事。イエス様は神様からの裁きを身に受けようとしておられます。
エリコに差し掛かったイエス様。エリコに行く途中道端で物乞いをしている盲人に出会います。彼はイエス様の事を「ダビデの子」と呼ぶルカの福音書唯一の人物です。彼はイエス様にあわれみを求めました。けれどもそれを阻止しようとする「先を行く人たち」と呼ばれる人々がイエス様と一緒に行動していました。彼らはイエス様に判断を仰がず、自分たちでこの盲人がイエス様の憐れみを受けるにふさわしくないと判断し、イエス様に近づく機会を奪おうとします。これはとても恐ろしいことです。けれども盲人は、たしなめられて終わってしまうのではなく、諦めずに、ますます激しく叫びます。そしてイエス様も彼を連れて来させます。
イエス様は彼に「何をしてほしいのか」と尋ねました。この質問への答えはいくつかの選択肢があります。通常、物乞いの彼が「あわれんでください」と求めるのは、生活のための施しだったはずです。イエス様にそれを求めることが出来るのに、彼はしませんでした。また彼はイエス様の事を「ダビデの子」と呼びました。ならばここで「ローマ帝国から解放してください」と願う事も出来たはずです。ただ、それもしない。彼が求めた憐れみ、それは「目の癒し」でした。イエス様が、その癒しを行える方だと確信し、願い求めます。するとすぐに、イエス様は彼を癒し、見えるようにされます。イエス様は彼の信仰が救ったと言われます。彼の信仰とはどのような信仰か?イエス様にしかできないという信頼、ここで逃したらダメだという強い思いが、たしなめる人々をよそに、馬鹿にされたかもしれませんが、それでも、イエス様にしつこく求めることをやめない信仰です。
そして彼はイエス様についていきます。彼は、イエス様に従う者として、神の国、神の支配を生きる歩みへと踏み出します。そして、神様のみわざ、イエス様のみわざが起こる時、そこには神様への賛美が起こることを書き留めています。
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