「招かれたのはどちらか」

2025年3月23日 主日礼拝説教梗概

聖書:ルカの福音書 14章1~24節

説教:安藤友祥主任牧師

 

 今日の箇所は、安息日にイエス様がパリサイ人の指導者に招かれて食事会に参加した時の出来事が書かれています。イエス様はそこで逆転の出来事。そして神の国への招きをされます。

 今回の主催者はパリサイ派の指導者。ユダヤ教のエリートとも言える人々が集まっている食事会にイエス様は招かれています。7節では、その食事会に参加している人々が、上座に座りたがっている様子にイエス様が気づきます。彼らには「自分は選ばれた者でありたい」という欲が見えます。イエス様は、たとえを話し、謙遜であることを教えます。

 続いてイエス様は主催者に誘うべき人々を教えます。誘われたら同じように誘い返す文化の中、お返しをすることが出来ない人々を招く。そうすることで義人の復活の時に報いがあると。損得勘定や物質的な欲、いかに自分が優位であるかという価値観の中生きている人々とは真逆の価値観を示すイエス様。今生きている状況だけに目を向けるならば、気づくことのない生き方への招きがされているとも言えます。

 イエス様は盛大な宴会を催した主人と客のたとえ話を始めます。宴会に参加表明をした人々全員が急遽キャンセル。この緊急事態に主人は怒り、用意した席を埋めるための働きかけをします。注目したいことは、主人の言葉の変化です。最初の客は「招待」ですが、21節、23節の人々は「連れて来なさい」と言っています。連れて来られる人々は受け身です。主人も特別見返りを求めているわけでもない。その恵みに与る人として選ばれた人々は、人々から価値がないと考えられていた人々。何かしても見返りを受けられないと除外されていた人々です。

 イエス様が語られたたとえ話。私たちはどの登場人物なのだろうか?と考えさせられます。たとえ話の主人は言いました。無理やりにでも連れてこい。なぜ無理やりにでもしなくてはいけなかったと考えると、誘われた人々は、「自分にはお返しするものがない」と考えたからとも考えられます。私たちが神様の救いに入るために支払われたものはイエス様の十字架の犠牲です。イエス様の犠牲と同じものを、お返しとして用意するなんてこと、私たちは誰一人出来ません。私たちは招待されて当然でもなければ、お返しするものも持っていない。そのように思う時に、ただただ神様からの愛と恵みの働きかけによって、連れて来られた一人でしかないのです。

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