「イエスの弟子になるという事」
2025年5月4日 主日礼拝説教梗概
聖書:ルカの福音書 14章25~35節
説教:安藤友祥主任牧師
26節の出だしに驚き衝撃を受けます。ここで言われていることは、これまでのイエス様の教えや、聖書が教えている愛と反発するような言葉に聞こえるからです。私たちが『憎む』と聞くと、憎しみや邪悪な感情をぶつけるように受け取ります。けれども、そうではなくヘブル人は「Aよりも、Bを、より愛する」と表現するときに、「Aを憎む」と表現します。イエス様は、ここで名前を挙げている誰よりも、イエス様を愛する事をしなくては、イエス様の弟子になることは出来ないと教えています。さらにイエス様は、自分のいのちまでも憎めとおっしゃる。それらとイエス様を天秤にかける時に、イエス様を選べないならば、弟子にはなれない。死を迎えるまで、そのような意識で生きることを、そしてイエス様に従ってくることを教えられたのです。
改めてこの出来事を見る時に、この言葉を聞いていたのは、弟子にはまだなっていない群衆たちです。すでに弟子になっている人たちに、「これらの事が出来れば、使徒になれる」とかではなく、イエス様に従う最初の一歩だということに衝撃を覚えます。イエス様は一時の感情や勢いで決断するのではなく、イエス様に従おうとするときの代償、自分が払う犠牲をよく考え、それが出来るだろうか?としっかりと考えてから決断するようにと迫ります。そうでないならば、いざと言う時に、イエス様よりも他の何かを優先して、イエス様に従う歩みから外れる、離れてしまう事も起こりうるからです。イエス様に従うとは、相当な覚悟が必要な、大きな代償が必要な決断。感情的に勢いで決断するものではない。自分が遂げようとしていることが、どれほどのものなのかをしっかり考えなくてはいけないのだと教えられています。
そしてイエス様に従う事を選んだ時の代償に合わせて、イエス様の弟子となることを選ばなかった時の代償も考えなくてはいけません。イエス様に従わないという事は、イエス様の救いに与らない事。神様からの赦しを受けないという事です。イエス様の言葉に従って神の国に生きる時に、滅びから命に移された歩みがそこにあります。改めて、今日の箇所でイエス様が言っている代償。それが自分のいのち、救いと関わる決断だという事を覚えたいのです。イエス様がどのような代償にも代えられない。何ものにも勝る方だという事を、味わい知る歩みを、歩んでまいりましょう。
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