「いつまでも主と」

2025年5月11日 主日礼拝説教梗概

聖書:詩篇 23篇

説教:安藤友祥主任牧師

 

 この詩篇で神様が羊飼いであると告白し、それは同時に、自分が神様の羊であるとの告白につながります。羊は、非常に目が悪く、さらに臆病であり、外敵から攻め込まれた時に戦う手段を持っていない動物だと言われています。羊飼いの経験があるダビデは、羊がどのような動物か理解した上で、もっと強く賢い動物もいたはずなのに、あえて自分を羊と言い表しています。自分は、神様に守って養ってもらわなくてはいけないという自己認識がここにあります。そして神様が自分の羊飼いである限り、自分は乏しいことは体験しないのだと告白します。

 神様は私たちを義の道へと導かれます。その道は、自分で開拓するものでも、自分で見出すものでもありません。神様が導かれる道であり、その導きに従う時に歩むことが出来る道です。その道を歩む時、4節にあるように、死の陰の谷、暗闇の谷を歩むことがあるかもしれません。「神様の導かれる義の道だから、死の陰の谷は無い」ではありません。けれども、ダビデは告白します。そのような体験があっても、わざわいを恐れない。脅威がなくなるわけでもない。けれども、そうであっても、その中にあって主の守りを体験する。それは私たちが体験している主がともにいるあゆみ。主が共に居てくださるという体験と重なります。クリスチャンになった結果、何も苦労や困難も体験しなくなるではありません。神様の導く中を歩む時に、死の陰の谷はあります。ですがその歩みの中で、困難の中で、主の臨在を体験する。主がともにおられること、その中にあって導き、解決を備えてくださることを体験していきます。主がともにおられる祝福。主に従う歩みの平安を知っていく。信頼が深まり、この神様にこれからも従っていこうと思いを強くされていくのが、信仰の歩みです。

 5節「敵をよそに」と言う言葉からも、神様に従っていても、神様と共にいても、敵は存在してしまう。けれども、それを恐れる必要のない主の家でのもてなし。神様に委ねきることの祝福が歌われます。いつまでも主の家に住む。いつまでも主を礼拝し続ける。神様の素晴らしさをほめたたえるダビデは、自分の人生の豊かさや平安以上に、それを自分に与えてくださる、導いてくださる神様に目を向け、神様との個人的な関係を感動し、喜んでいます。私たちも神様を「私の主」と個人的な関係で呼べる祈りへと導かれています。

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setachu
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