「主の食卓」

2021年12月5日礼拝説教梗概

聖書:コリント人への手紙第一11章23~29節

説教:安藤友祥主任牧師

イエス様は十字架にかかるという事を目前に控え、聖餐式を制定されました。イエス様は聖餐式にイエス様がなさった御業を思い起こすための食事としての意味を与えられたのです。 教会がパンを裂く時、十字架の上で死なれたイエス様の事を思い起こさずにはいられません。それが自分たちの罪を背負い、神様の裁きから救い出すための犠牲であった事を思い起こします。イエス様が十字架で流された血によって結ばれ、実現した新しい契約。神様を知り、神様との交わりに入れられる。神様が彼らの不義を赦し、もはや彼らの罪を思い起こさないと約束される新しい契約。その契約を結ぶための犠牲として十字架で流される血を、この杯を飲むたびに思い起こします。このパンと杯を口にする時に、私たちは赦された自分の罪。自分が加えられている新しい契約。そのためのイエス様の死の犠牲を深く受け止めつつ、味合わなくてはいけません。 「主が来られるまで」と、やがて来る終わりの時の主の再臨に思いを向けます。私たちはイエス様が再び来られる方であると確信し、その時を待ち望みつつ聖餐式を行います。そして神様の共同体が、信仰を持って、この聖餐にあずかる時に、イエス様の死を、救いを、神様のみわざを世界に告げ知らせる言葉となるのです。 この手紙が書かれた時、コリント教会は「一つ」という事が難しい状況でした。教会の中に愛が無く分裂や差別があった。パウロは言います。そんな状況ではイエス様の一つの体を食べるのにふさわしくない。ふさわしくないままで主の体を食べ、血を飲むことは、主の体に対して罪を犯す事になると。パウロは、この言葉を書き送る事で、教会の中にあった、キリストの体の共同体としてふさわしくない行いや実態を、それぞれが吟味して悔い改め、赦しの内に聖餐の恵み、自分たちの為に犠牲を捧げてくださったイエス様の事を記念する事への回復を願っていたのではないでしょうか?   イエス様を、イエス様のみわざを、思い起こす時として。救われた共同体として、神様への献身の思いを新たにする恵みの時として聖餐にあずかりましょう。

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