「自分を低くする者は高くされる」

2021年10月24日礼拝説教梗概

聖書:ルカの福音書18章9~14節

説教:安藤啓子牧師

さてイエス様は、「自分は正しいと確信していて、うぬぼれ、他人を見下している人たち」に、パリサイ人と取税人の祈りのたとえ話をなさったのでした。  パリサイ人は、律法とそれに付随する伝承、口伝律法を厳守して、律法を破らないで生きようとすることに熱心な人。一方、取税人は同国人なのにローマ帝国の手先として私腹を肥やしている罪人の代表だと見られていた人。この対照的な二人が、祈るために宮に上って行き、対照的な祈りをささげるのでした。パリサイ人が自分と同じ時に祈りの場にいた取税人を引き合いに出し、他者との比較と自分の功績に基づいて自己を義とみなす。自分の善いところを神様に伝える「祈り」をささげました。それとは対象的に、取税人は自分が神の目に罪人であるという一点にのみ目を向け、目を天に向ける事も出来ず、神のあわれみに自分自身を委ねて祈るのでした。 イエス様は、神様の目線では何が起こるのかを明らかにします。「義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのパリサイ人ではない」と。まさかの事態です。彼らにとっての取税人は義からかけ離れている罪人であり、パリサイ人は正しい人との先入観に立っていたからです。では一体何が、義と宣言された決め手となっているのか。それは神様に心を向けているか否かです。 今日のたとえ話から、イエス様が伝えたかったことは、どんなに律法を徹底して守っても、他の人と比べて良い行いを実践していても、自分を義とする事は出来ないということ。そして日々の営みの中で、自分が神様の前にどのようなものであるのか。自己義認の芽が無いか。自分を高くしていないかとイエス様に問われています。私は取税人のように生きているから大丈夫と考える人もいるかもしれません。この「大丈夫」という思いが危険なのです。私たちも心からへりくだり、神様の憐れみの中で生かされ、祈りを捧げる者とならせていただきましょう。

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