「行いを伴う信仰」
2023年1月29日礼拝説教梗概
聖書:ヤコブの手紙 2章14~26節
説教:安藤啓子牧師
この箇所全体からヤコブは、自分には信仰があると言ってる人が、実際それが「どんな信仰か」というのが問題なのだということを、わからせようと語っていきます。そして、彼らが自分はどんな信仰なのかを探らせていくことを目的としていることがわかります。
初めにヤコブは、「だれかが自分には信仰があると言っても」と語り始めていますが、「人に信仰があっても」とは言っておりません。誰でもが「私は信仰がある」と言うことはできるからです。けれども、その人に行いがないなら、その信仰は何の役にも立ちませんと断言しています。そこでまず、行いの伴わない信仰の例を取り上げます。着る物がなく、その日の食べ物にも事欠いている人がいるのですが、その人に耳障りのいい言葉はかけても、体に必要なものを何もあげないなら、何の役にも立たないことを示します。
もう一つは、行いの伴う信仰を働かせて神様に義とされたアブラハムと遊女ラハブの信仰を見せます。神様を信じるアブラハムは、神様に対して行いを伴う信仰が働き、神様への信仰がイサクをささげるという実際の行動に現れ義とされました。また遊女ラハブは神様を恐れ、神の民イスラエルを守ったことにより、その生きた信仰を神様に義と認められました。
今日のところから、私たちも自分の信仰がどのような信仰であるのかを、もう一度探られます。そこで、神様の憐れみの中で、行いの伴う信仰によって生かされていると思えた人は、これから先も、神様に導かれるままに歩み続けられるでしょう。けれども、そうでないと気づかされた人は、どうしてかを思い巡らしてみましょう。
私たちは救われたときに、既に行いを伴う信仰を頂いています。そして行うべきことも与えられています。でも行いが伴わないなら、なぜ今、その信仰を働かせ行うことができないのか?なぜその信仰に伴う行いを、実行に移せないのか。それを神様の前に注ぎだして探って頂き、つくり変えて頂きましょう。神様の憐れみの中で、私たちが神様が与えていて下さる行いを伴う信仰によって、互いに愛し合い、仕え合って信仰生活を送れるなら、なんと素晴らしいことでしょう。
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