「主の目は誰に」

2025年1月19日礼拝説教梗概

聖書:ペテロ第一の手紙 3章9~12節

説教:安藤啓子牧師

 

 今日、私たちが神様から求められている行いは、決して自分の努力で出来るものではありません。神様の愛とお力によらなければ不可能です。そこで神様は私たちに教えて下さるのです。神様が求める事はどんなに難しくても、それが行えるように。私たちの上に神様が力となり、御霊が力となって行わせて下さるということを。なぜなら、神様が私たちを祝福を受け継ぐために。そして祝福の基となるために召していて下さるからです。実際に、クリスチャン達が受けた悪や侮辱に対するお返しに、祝福が与えられたら相手はどんなに驚くことでしょう。
でももし、私たちが悪に対して自分で何かしらの形で仕返しをしようと、一瞬でも誘惑にかられたとしたら。それは神様の働きを損なうばかりか、神様に喜ばれないということです。12節で主の目と耳は、神様のあわれみと恵みによって救われて、御霊の一新によって作り変えられた人、正しい人たちの上にあるというペテロ。この温かい愛の眼差しで、私たちを理解しようとして下さる主の眼差しが常に、主を恐れる者に注がれます。主の恵みを待ち望む者に。信仰によって生きる、御霊によって生きる人たちに注がれます。このような人達の上には主の目があり、彼らの呻き苦しむ叫びの祈りに耳を傾けて下さるのです。ですから、舌に悪口を言わせず、唇に欺きを語らせるな。悪を離れて善を行い、平和を求め、それを追う者になりなさいと。主がペテロを通して私たちに勧めているのです。

 では、悪の被害に対する私たちの対応は、一体どのように導かれているのでしょうか?

 その神様のお心を知る者として、悪を行う者に対していたずらに恨んだり、仕返しを企んだりする心があってはなりません。そのために神様に力となって頂きましょう。神様に力となって頂いた上で、自分に対して悪を行う相手も自分と同じ罪人であって、その人も罪から離れ、改心できるようにと願わされるように。そのように変えて頂くのです。そういう神様から与えられた愛の気持ちを持って、悪に対して臨んでいくことが神様の御心であること。そのことを、今朝もう一度ご一緒に覚えさせて頂きましょう。

投稿者プロフィール

setachu
setachu
説教梗概

前の記事

「食卓にて」