「キリストの証人として」
2021年1月3日礼拝説教梗概
聖書:使徒の働き1章3~8節
説教:安藤能成主任牧師
「聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで、わたしの証人となります。」(使徒1:8)
昨年を振り返ってみますと、新型コロナの影響もあって、ほとんど教会の外に目を向けることができないで、内向きになっていたのではないかと思います。教会内にも山積する課題がありました。一時期はまったく会堂に集まることができないで、礼拝堂の扉を閉ざしていたこともありました。扉を開くことが悪いことかのように思うこともありました。
悪いことばかりではありませんで、インターネットの繋がりによっての交流がはじめられました。お蔭で水曜日の祈祷会に参加する方々が増やされました。またメッセージについての分かち合いの時間も豊かなものになっています。
さて、新年礼拝で確認したように、教会の年間聖句は昨年と同じくローマ人への手紙10章15節「なんと美しいことか、良い知らせを伝える人たちの足は」としています。それは昨年において達成していないからということです。それに関連して本日は使徒の働き1章8節のみことばからお話します。
私たちが主イエス・キリストを信じて救われたのは、キリストの者としてキリストの証人とされたということです。キリストの証人とは、キリストを証しすることです。ペテロはキリストの十字架と復活の証人だと語っています。キリスト信者であることはキリストを証しすること、福音を伝えることです。
振り返って、私たちは自分たちがそのような者であることを忘れていなかったでしょうか。忘れていないとしても、証人としての務めを果たして来たでしょうか。誰がということではなく、教会としてそのように主イエス・キリストに仕えて来ることができただろうかということです。
少し前に私たちはイエス・キリストのご降誕をお祝いしたばかりです。クリスマスは大いなる喜びのおとずれです。何で喜びなのでしょうか。その喜びの内容が重要なことです。それこそが福音と呼ぶものです。すなわち神が造られた美しい世界が人類の罪によって汚されたこと。そして人類だけでなくすべての被造物が本来の姿を失ってしまったこと。すなわち、創世記6章に記されているように、「主は、地上に人の悪が増大し、その心に図ることがみな、いつも悪に傾くのをご覧になった。」とあります。
その結果として人々の愛が失われ損なわれて、心が冷たいものになり、傷つけあう者となってしまいました。それをご覧になられた神は、世界を救うために愛する御子イエス・キリストを遣わしてくださいました。御子によって世が救われるためです。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネ3:16)とあるとおりです。
この福音を人々に知らせないで、私たちはキリストの教会と言えるでしょうか。イエス・キリストの弟子たちと言えるでしょうか。言えないと思います。主イエスはマタイの福音書の終わりで「ですから、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。父、子、聖霊の名において彼らにバプテスマを授け、わたしたあなたがたに命じておいた、すべてのことを守るように教えなさい。見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。」と命じています。
ここで主イエスは「いつもあなたがたとともにいます」と語っています。いつもともにおられるのならば、私たちが福音を伝えていることも、伝えていないこともわかっておられるということでしょう。また、いつもともにいてくださるとすれば、私たちが福音を伝えるときにはともに働いてくださるということです。主イエスに期待しましょう。私たちが福音を伝えるのか、伝えないのかということに、主イエスは関心を持っておられるということです。私は大いに反省しています。
教会が外に目を向けて福音を広めることをやめるとどうなるでしょうか。内向きになっていると教会としてのいのちを失います。喜びがなくなります。喜びのない教会には魅力がありません。使徒の働きに出て来る教会の姿は、「毎日心を一つにして宮に集まり、家々でパンを裂き、喜びと真心をもって食事をともに」していたとあります。
主イエスは、「新しいぶどう酒は新しい革袋に入れます」と、ご自分の集団について言われました。それは古い戒めや行き方にとらわれない新しい主イエスの教えに基づく生き方のことを語られたわけです。新しいぶどう酒は生き生きとしてはじけるような勢いがあるからです。炭酸を含んだようなものです。そこに勢いがあり、喜びも溢れます。なんと素晴らしいことでしょうか。
確かに今はともに集まって食事することもできない状態です。しかし霊的な交わりはとどめられていません。感謝なことは水曜日の祈祷会が祝福されていることです。語られたメッセージについてのレスポンスを聞き合うことに感謝が溢れます。互いの必要のために祈り合うことの素晴らしさを経験しています。もっと多くの方々が参加されればよいのにと思います。むつかしい話はありません。でも皆さんそれぞれの切実な祈りの課題はあります。初代教会の信徒たちがパンを裂き、食事をともにしていたように、今、私たちは霊的な食事を分け合っています。祈りの課題を共有しています。喜びも悲しみも辛いことも分け合っています。そして祈り終わったときにはすがすがしい思いに満たされると思います。
聖書は命じています。「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべてのことにおいて感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。御霊を消してはなりません。」(テサロニケ人への手紙第一5章16節~19節)。これはキリスト者の標準とも言われているみことばです。これを目指して行きましょう。そうすれば世の中はどんなに暗くても、私たちは明るく希望をもって生きて行くことができます。問題は尽きないかもしれません。でも、試練と共に脱出の道を用意してくださる神様を当てにして生きてまいりましょう。私たちとともにいてくださる「イエス・キリストは、昨日も今日も、とこしえに変わることがありません。」(へブル書13章8節)。使徒たちとともにおられた主イエス・キリストは変わることなく私たちとも、ともにいてくださるということです。
さて、もう一度主イエスの約束を読み返してみましょう。「しかし、聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで、わたしの証人となります。」
そうです。当時の地中海世界からすれば、地の果てにも見えなかったと思われる極東の国、日本にも福音は届きました。フランシスコ・デ・ザビエルたちによって確かに届けられました。そして多くの人々が信じてキリシタンとなりました。その信仰が今も子孫の人たちに伝承されています。また新しい宣教師たちが来られて福音を宣べ伝えてくれました。福音をそのものを伝えるだけでなく、教会とともに多くのミッションスクールや病院、あるいは福祉施設を設立してくれました。どれだけの霊的、具体的資産をもたらしてくださったことでしょうか。
私たちはそれらの恩恵をいただいています。私たちの教会が所属する同盟教団も国外に目を向けて来ました。今までに多くの宣教師の方々を派遣してきました。それは私たちにとって大きな喜びであり励ましです。私たちは直接海外の国々に行くことはできないかもしれませんが、遣わされている先生方とそのご家族を祈りと献金によって支援してきました。これからも続けることができます。
ご存知のように同盟教団の「祈りのネットワーク」102ページに派遣される宣教師の先生方とその任地が記されています。どうぞ覚えて祈ってください。
一つの教会、一人の人間ではできないことも、教団や団体という組織に所属することによって福音宣教の働きを担うことができるわけです。その一つの枝となっていることは幸いなことだと思います。
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