「待ち望む二人」
2021年10月17日礼拝説教梗概
聖書:ルカの福音書2章21~40節
説教:住友暁伝道師
シメオンは、イスラエルが慰められるのを待ち望んでいました。「イスラエルの慰め」は「メシアによる救い」と同義です。信仰の人シメオンは、彼の上にある聖霊に、「そのメシアを見るまで死なない」と告げられていました。その彼が、遂に羊飼いたちと同じように聖霊に導かれて、メシアとして来られたイエス様と出会い、神様をほめたたえ賛美します。私たちをイエス様のもとに導いて下さるのは聖霊の恵みであることを覚えます。シメオンは、イエス様を抱いて「私の目が御救いを見た」と言います。救いの教えでもなく、救いの業でもなく、イエス様こそ“救いそのもの”であるとの表現です。「私の目」は、身体的機能としての目と言うよりは心の目が意味されているようです。シメオンは、聖霊に目が開かれて、神様の救いの全貌をイエス様に見たのです。それは、イエス様と言う救いは、世界中の人が見られるもので、ユダヤ人のためであり、同様に異邦人のためでもあるという内容です。シメオンは、「全ての民の前に備えられた救い」と述べて福音を世界的なものとしました。私たちは世界中の人々に「見て下さい。ここに救いがあります」と伝道し、「置かれている彼を見て受け入れ救われるように」と祈ることが出来ます。 そこにやって来た、年老いた女預言者アンナもまた、断食と祈りをもって主の救いを待ち望んでいた人でした。彼女は、イエス様を見て神様に感謝をささげて、早速、同様にイスラエルの救いを待ち望む人々に対して、イエス様の救い、即ち、神様の来臨と神の国の到来を告げ知らせるという宣教の業を果たしました。私たちも同じ宣教の業に召されています。また、今日のシメオンとアンナから「待ち望む」、即ち、“希望と期待をもって待ち続ける”ということを学びます。私たちの信仰は、イエス様がもう一度来られる時、再臨の時に全ての者を審かれるという最後の審判を経て、イエス様が山上の説教で語られた神の国が完成されるというご計画の実現を信じ待ち望む信仰です。シメオンとアンナの様に、神様に対する愛と信頼、確信と期待を持って祈り、待ち望み続けてまいりましょう。
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