「主よ、信じます。」

2023年5月14日主日礼拝説教梗概

ヨハネの福音書8章12節、9章35~41節

説教:赤坂泉牧師(聖書宣教会校長)

 十字架上の主の死に直面して絶望の淵にいた弟子たちに、よみがえりの主が現れてくださった。「平安があなたがたにあるように」(20:19,21,26)と繰り返し、彼らに息を吹きかけて「聖霊を受けなさい」(20:22)と仰せられた。弟子たちにとってどれほど大きな慰めであったことだろう。この同じ聖霊の恵みが、今も、主の弟子である私たちに平安を与える。

 ヨハネの福音書は、信じる者に与えられるまことのいのちを一貫して強調する。そのもたらす力と平安を繰り返して教える。その中で、8章から9章の大きなまとまりでは、主イエスの「わたしは世の光です」という自己紹介( 6:48いのちのパン、8:12世の光、10:9門、10:11良い牧者、11:25よみがえり・いのち、14:6道・真理・いのち、15:1まことのぶどうの木、という七つのうちの第二)に焦点を合わせている。そこで浮き彫りにされるのは、まことの光と出会って、信じて、光の中を歩む幸いである。

 「主よ、信じます」というその告白の内容が肝要だ。ユダヤ人の多くが「信じた」(8:30)と言われているのに、直後に生じるのは、主イエスに対する疑念と反発と殺意である。一方、生まれつき目の見えない一人の人は、主のことばを信用してシロアムの池に行って洗った。そうして肉の目に光をいただき、霊的にも文字通り開眼した。

 実は、ヨハネの福音書には、もう一つ、「わたしはある」である、という主イエスの最も重要な自己紹介がある。8:24と脚注を確認していただきたい。主イエスはまことの神ご自身である、という自己紹介である。

 今、聖書を与えられている私たちが、「主よ、信じます」と告白するというのは、これらの主イエスの自己紹介を、聖霊の助けによって理解して、「主よ、信じます」と告白するということである。そうして、主のことばにとどまり、主の弟子として生きる。(8:31,32)そこに、まことのいのちがあり、まことの平安がある。

 私たちの信仰はいかがだろう。改めて、主を知ることを深め、平安をさらに確かにしていただこう。

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setachu
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