「福音書の分岐点」

2024年8月4日主日礼拝説教梗概

ルカの福音書 9章18~27節

説教:安藤友祥主任牧師

 

 イエス様は5000人の給食の奇跡の後、祈られた後、弟子たちに問いかけられました。「群衆はわたしのことをだれだと言いますか」弟子たちは群衆の中にあった噂の言葉をイエス様に伝えます。イエス様のことを「預言者の一人」だと群衆は考えていました。その答えを聞き、改めて弟子たちに問い直します。「あなたがたは」と。個人的な質問をされるイエス様。その問いかけにペテロは「神のキリストです」と答えます。この答えはイエス様が求められていた答えでした。正解を答えるペテロ。けれどもイエス様はご自分が神のキリストであることを誰にも言わないようにと命令されます。当時のユダヤ人の中にあったキリストへの期待。それは本来のキリストの役割とはかけ離れたものでした。イエス様は間違ったキリスト理解を自分に寄せられないためにも、このように命令されました。

 ペテロはイエス様が神のキリストであると正しく言い表すことが出来ました。けれども、正しく答えられたけれども、それがすなわち、正しく理解し、認識しているとは別です。イエス様は神のキリストがどのような役割を持っているのかを、ここで弟子たちに教えます。弟子たちも当時のユダヤ人でしたからローマを倒す強い王様への期待がキリストにあります。それに対してイエス様が教えられたキリストの役割は、苦しみを受け、人々に拒絶され、殺される。そしてよみがえるキリストの在り方でした。当時の人々の期待とは正反対のキリストの役割。弟子たちは驚いたのではないでしょうか。

 イエス様は続いて、自分についてくる人の在り方。弟子の在り方を教えられます。「自分を捨て」「日々十字架を負い」「イエス様に従う」神様によって与えられているこの世の人生、命は神様のものである。そのことを受け入れ、イエス様に従って生きる。その結果、命を救う事になるとイエス様は教えられます。ただ、この言葉、「出来ない」「無理だ」と感じてしまう言葉かもしれません。また「自分は出来ている」と考えることも危険だと言えます。ペテロは「出来る」と考えていましたが、イエス様逮捕の時にそれが表面的な思いであったことが浮き彫りになります。「私達には出来ない」そう考え、それでもイエス様についていきたい。助けてくださいと祈れるものになりたいのです。

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