「祈りが聞かれるという事」

2024年12月1日主日礼拝説教梗概

ルカの福音書 1章5~25節、57~80節

説教:安藤友祥主任牧師

 

 今日から待降節に入りました。ルカはイエス様の出来事の前に、ザカリヤ、エリサベツと言う老夫婦の祭司に目を向けさせます。祭司の堕落、権力との癒着が起こっていた時代において、神様の前に正しく生きていた二人。模範的なユダヤ人の姿を見ます。ただ、彼らには子どもが居ませんでした。子どもを授かることは神様の祝福と考えられていました。神様の前に落ち度なく生きていた二人にとって、神様の例外を体験し生きていました。そして、その生活は二人にとって恥を感じる生活だったと書かれています。二人は既に、子どもを授かるには年を取っていた。長い年月、子どもが与えられるように熱心に祈り続けていたはず。けれども、なかなか与えられない。とうとう二人は子どもが与えられるようにと祈る事もやめてしまっていたのではないでしょうか?

 ザカリヤが神殿の奉仕の当番の時の出来事。慣習に従ってくじを引くと香を焚く奉仕に当たりました。奉仕のために聖所に入っていくと、そこに御使いが現れ、ザカリヤにとって二つの意味で祝福の宣言をするのです。「あなたの願いが聞き入れられました。」そしてその願いが聞き入れられた結果、ザカリヤとエリサベツに子どもが与えられるという事。そして、その子どもは約束の救い主の先を歩むものとしての役割が与えられている。約束の救い主到来成就の出来事です。喜ばしい宣言。けれども、ザカリヤはみ使いの言葉を疑ってしまいました。確かに、子どもが与えられるという事を、かつては祈り願っていたことかもしれない。けれどももう二人とも年を取ってしまっている。不可能ではないか?と。聖書を読む時に、年老いてからの妊娠。不妊の女の出産の出来事。神様の超自然的介入の出来事は書かれています。けれども、自分が同じ出来事の当事者になるとは受け入れる事が出来ないのです。神様の前に落ち度なく正しく生きている、模範的な信仰の持ち主であったザカリヤもそうでした。ここぞという時に人間の現実的視点が神様の言葉への信頼を揺らがせてしまいました。ザカリヤは神様の言葉が真実であるというしるしを裁きにも似た形で受け取りました。

 私たちは変わりうるものであると同時に、変わらない神様に祈っていることを覚えます。私たちが信頼し、祈るのは人の想像を超えたわざをなされる神様に祈っているのです。

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