「十字架の上のとりなし」
2025年4月13日 主日礼拝説教梗概
聖書:ルカの福音書 23章32~49節
説教:安藤友祥主任牧師
ルカの福音書の十字架の出来事を開いています。イエス様は、十字架の上でとりなしの祈りを祈られました。彼らは自分が何をしているのかが分かっていないからと、神様に赦しを求める。印象的なイエス様の愛と慈悲の言葉です。
十字架にかかるイエス様にあざけりの言葉をかける人々の姿があります。指導者たちはイエス様の事を「他人を救った」と言っている事です。イエス様が人を救ってきた事実は彼らも否定が出来ないのです。そして、指導者も兵士たちも、イエス様に「自分を救ってみろ」と挑発をする。けれども残念なことに彼らは、そのイエス様の救いを「自分たちにください」とは言えない。ただイエス様に「自分自身を救ってみろ」と挑発することしか出来ないのです。イエス様の救いの出来事、事実に彼らのように距離を置いてしまう人が居るかもしれません。けれども、そのような人こそ、自分と無関係ではないと気づかなければ危険なのだと彼らの姿は私たちに教えます。
十字架の上で救いにいたるやり取りがされます。十字架の上の犯罪人は、「あなたが御国に入られる時」と「いつか」とも言えるタイミングでの願いを伝えていました。自分は神の国に入れないと考えていた彼は、今日、イエス様とともにパラダイスにいると平安の約束を聞くのです。彼は自分がした罪を自覚し、反省し、悔いていました。その彼の信仰をイエス様は見られ、救いの約束を与えられました。
ルカの福音書の十字架の出来事を読むときに、他の福音書との大きな違いに目が留まります。それはイエス様が神様のことをずっと、「父よ」と呼んでいることです。イエスは差し迫った死に直面して神様に身を委ね、神様の意志への服従と、神様が自分を救い出してくださる、つまり死からよみがえらせてくださるという信頼を表明し祈ります。ルカの福音書の十字架の出来事で見えてくるイエス様の姿。それは最初から最後まで父なる神様を信頼し、委ねているイエス様の姿です。
私たちは救われた結果、イエス様のように変えられ、イエス様のように生きることへと招かれています。それは十字架の上で「父よ彼らをお許しください。彼らは自分が何をしているのかは分かっていないのです。」ととりなしの祈りを祈る生き方です。私たちはイエス様のその生き方を遠くで沈黙しながら見つめる傍観者ではなく、当事者になるように招かれています。
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