「それでも祈られるイエス」

2026年3月8日 主日礼拝説教梗概

聖書:ルカの福音書22章24~38節

説教:安藤友祥主任牧師

 今日の箇所に書かれているのは「弟子たちの無理解」「弟子たちの弱さ」「弟子たちの誤解」の出来事です。そして、それでも祈られるイエス様の姿が書かれています。

 最後の晩餐という受難直前の大切な場面で、弟子たちは「誰が一番偉いのか」という論争を始めてしまいます。イエス様は以前から「一番小さい者が一番偉い」と教えていましたが、弟子たちはその教えを理解できていませんでした。弟子たちは、自分の影響力や立場を求める思いにとらわれていました。この姿は弟子たちだけでなく、私たち自身の姿でもあります。私たちもまた、自分の思い通りに物事を進めたい、人より上に立ちたいという思いを抱えてしまう存在です。イエス様は、この世の支配の価値観を示しつつ、「あなたがたはそうであってはいけない」と語り、偉い者とは仕える者であると教え、そのような弟子たちに対して、イエス様は見捨てることなく、彼らに将来の栄光を約束します。

 続いて、ペテロに向かって、サタンが弟子たちの信仰をふるいにかけようとしていることを告げます。ペテロは「牢でも死でも共にします」と自信を持って答えますが、イエス様はこの夜のうちに三度私を知らないと言うことを予告します。同時に、イエス様は「あなたの信仰がなくならないように祈った」と語られました。イエス様の祈りは、失敗しないための祈りではなく、失敗しても信仰が完全に失われないようにという祈りでした。

 さらにイエス様がこれから先の困難を示しても、弟子たちはその意味を理解せず、剣を二本持っていると見せます。弟子たちは無理解で弱く、しばしば見当違いな反応をします。それでもイエス様は彼らのために祈り続けました。

 ペテロはイエス様が言われたとおりにしてしまいますが、悔い改めて回復し、後に教会を励ます働きを担いました。ここに、イエス様のとりなしの祈りの力を見ることができます。私たちもまた信仰のふるいにかけられ、失敗し、弱さを経験します。しかしイエス様はそのことを知ったうえで私たちのために祈り、とりなし続けておられます。だから私たちは、自分で「だめだ」と判断するのではなく、何度でも主のもとに立ち返ることができます。弟子たちの弱さの中にも働いたイエスの祈りは、今も私たちを支え続けているのです。

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