「喜ぶのは当然ではないか」

2024年5月12日主日礼拝説教梗概

ルカの福音書 15章11~32節

説教:安藤友祥主任牧師

 

 

 イエス様は15章冒頭。イエス様が罪人と呼ばれる人々と仲良くしているのを見て文句を言う人々にたとえ話を3つされました。どれも失われたものを熱心に探す人物が主人公です。いなくなった100匹の羊の中の1匹。無くなってしまった十枚の銀貨の内の1枚。このように失われたものの割合が大きくなっていく中、二人の息子がいた父親の話が始まります。

 たとえ話に登場するのは、自分勝手で失礼極まりない弟息子。その弟が好き放題をした果てに、自分の命も失いそうになる時、我に返り父のいる家に帰ろうと決心します。彼は悔い改めの言葉を用意しつつ、息子としてではなく、雇人の一人として命をつなごうと考えました。けれども、彼の予想に反して彼の父は彼を一言も責めることなく帰宅を喜び、「死んでいたものが生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから」と最上のもてなしをもって宴会を開くのです。

 そのことが受け入れられない兄息子が登場します。彼は好き勝手した弟だけでなく、その弟を責めることもせず、喜ぶ父にも不満を抱え、ぶつけます。父は兄息子をなだめるために外に出て来て「死んでいたものが生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから」と理由を伝え、「喜び祝うのは当然ではないか」と伝えます。

 この父の言葉に兄がどのように応答したのかをイエス様は語りませんでした。イエス様はこのたとえ話をパリサイ人、律法学者たちへのチャレンジとして語りました。彼らが苦々しく思っている人々は、神様から見る時に死んでいた人、失われてしまった人々です。それが生き返り、見つかる。それは喜ぶべきことなのだ。むしろ、不満に思うかもしれないが、神様に従う人は神様と共に喜んで当然なのだという神様の価値観が表わされます。喜びづらいことを、喜びなさい。神様の恵み、祝福が、自分が良く思っていない人に及ぶことを、喜ぶのは当然ではないかと、神様はチャレンジしてくるのです。そもそも、祝福の主体は、祝福を与え、救いを与える神様にあることを、人間は忘れてしまいがちです。この人は救われないだろう。同じ救いに与りたくない。そのように思ってしまう誰かが居るかもしれません。その人の事も、自分を愛してくださったその愛で、神様は愛しているのだと気づくことから始まります。