「イエスの祈り」
2024年3月3日主日礼拝説教梗概
ヨハネの福音書 17章1~26節
説教:安藤友祥主任牧師
イエス様は最後の晩餐の最後、神様に祈られました。この祈りは大祭司の祈りとも呼ばれ、イエス様自身のため、弟子たちのため、これから救われる人のために祈られた祈りです。そして、このイエス様の祈りは、イエス様だからこそ、そして、この時だからこそ、祈ることが出来た、そんな祈りの言葉であると言えます。
イエス様は「時が来ました」と言われます。ヨハネの福音書では「時」と言う表現が印象的に使われます。イエス様には定められた時がある。そしてイエス様自身、その自分の時を把握して歩みを進められていました。ついにその時、イエス様が栄光を受けるタイミングが来たから、イエス様は栄光を受けるように祈ったのです。
栄光を受けるための祈り。イエス様の栄光とは、これから先に起こる、十字架の出来事です。イエス様の栄光は、十字架を通して現されるという事を、私たちは知っておかなくてはいけません。十字架は本来、人から見ると恥の出来事です。その恥とも言える出来事が、子なる神であるイエス様の真の栄光の出来事だとイエス様は理解し、神様に従おうとしているのです。神様が用意された、世界を救う出来事。そのためには十字架が必要であり、その神様が与えられた役割に、イエス様が従う事、従い通すことで、イエス様は神様の栄光を現すのです。イエス様の十字架による救いの出来事によって与えられた新しい命、新しい生き方、神様との交わりの中に生きる命が、この世界の中で始まっていくのです。新しい命が、イエス様において、イエス様を通してこの世界に誕生するという出来事が起こるのです。
イエス様は地上の歩みにおいて、完全に従順に神様に従われました。そのことを通して、イエス様は究極的な神様の栄誉を現されました。ですから、私たちにとっても、神様をほめたたえる方法は、イエス様のように、神様を知り、神様に従う事だと言えます。
イエス様が最後の夜に祈られた祈りの始まりに目を向けました。そこにあるのは、イエス様と父なる神様との間にある親密さです。この交わりは確かに親密ですが、排他的ではない。そこに入れさせないではないのです。私たちはこの親密な愛の関係に、加わるようにと、永遠のいのちを持つものとして生きる事へと招かれ、加えられているのです。