「光の子として」

2022年2月6日主日礼拝説教梗概

聖書:エペソ人への手紙5章3節~10節

説教:安藤友祥主任牧師

パウロは聖徒にふさわしくあるための心構え、注意を語ります。パウロは教会の中にあった問題や課題を知った上で、この言葉を選んでいます。イエス様が命を懸けて救った一人一人を、神様は漏れることなく、子どもとし、聖徒としてくださっている。手紙でこれまでパウロが注意してきた内容が教会の中にあったわけです。その事も分かっていて、ここでも「聖徒にふさわしく」と呼びかけます。「聖徒になるため」ではなく「すでに聖徒とされているのだから、それにふさわしく」という呼びかけです。もうあなたたちは聖徒なのだから、淫らな行いも、汚れも、むさぼりも、口にする事さえしては駄目だと教えます。 パウロは横行している不品行に対して、はっきり「ノー」と語ります。当然、「ノー」と言うのは空気を変えます。周りから浮きます。マイノリティであることを実感というか痛感する時かもしれません。その時、私達は地の塩としての働き、本来の神様の与えられた祝福を広げる基としての働き、救われた目的を果たしていく事に繋がります。パウロは言います。自分の力ではなく、神様からの力を受け、助けを受けて、それらのことをなしていくのです。 パウロは「むなしい言葉でだまされてはいけません。」と書き送ります。世界には虚しい言葉が溢れています。神様の考えよりも良いものがあると思わせるような言葉があります。神様の言葉以上の価値をそこに見出して従うなら、それこそ、偶像礼拝になってしまいます。私達は虚しい言葉の前に、神様の言葉、神様の考えを正しく知る必要があるのです。 私達も神様の価値観を持つものとして、この世界の中で生きています。そしてその中で地の塩として生きるのです。神様の祝福に生きる価値観を知らない人がいる場所で、そのような価値観、生き方があるのだと私たちは神様を指し示すのです。 光の子らしく、光の子として歩みなさい。これは何者でも無い者が、光の子どものように生きるという目標的な言葉ではなく、「あなたはすでに光の子なのだから、そのようにあゆみなさい」と今の自分の本質を確認している言葉です。 

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