「神が家族」

2021年8月22日礼拝説教梗概

聖書:エペソ人への手紙2章19~22節

説教:安藤友祥主任牧師

パウロは、「あなた方、異邦人と呼ばれる人々は、もう他国人でも寄留者でもなく、イエス様によって救われた人々は、同じ国の民なのだ」と宣言しています。19節に出てくる聖徒という言葉。このエペソ書冒頭で登場した言葉です。これから聖徒になるのではなく、すでにあなた方は聖徒なのだと。問題もあった、欠けもあった。そんな人々にあなた方はイエス様に忠実な聖徒だと励ますパウロ。自分がふさわしいからとかではなく、一方的な神様からの恵みにおいて聖徒にされています。 パウロは「神の家族なのです」と書きます。一人一人が神様との親子関係にある。その事を前提とした兄弟姉妹同士の横の繋がりがあります。神様が、私たちの家族になってくださったという奇跡的な事実です。かつてのイスラエルにはない、神様との全く新しい関係。神様との近さが、この言葉に表されています。救われて何かしらを経たある段階で神様の子とされるのでもありません。救われたと同時に神様の子とされています。神様の子の集まりが神の家族と呼ばれる共同体、教会です。神様のひとり子であるイエス様に倣う生き方をする神様の子の集まりが教会です。 さて、パウロは国民、神の家族と共同体について語った事を20節でさらに前進させます。私たちが神様の神殿となるという約束です。その材料に優劣も、民族の違いも何も差はなく、同じように一つの神殿へと建て上げられていく。私たちはこれから組み込まれるのではなく、すでに組み込まれているという表現をパウロは使っています。そこに組み込まれるという事は、救われた人が誰一人として漏れることなく、この神殿建設に必要な存在であったということ。神様のご計画だったということです。 22節。パウロはここで改めて三位一体の神様に目を向けさせます。神殿は神様の臨在のしるしです。古代イスラエルのように建物としての神殿に臨在するのではなく、今の時代は、イエス様によって贖われ、聖霊によって一つとされている共同体に臨在します。私たちが生ける神殿となり、神様が臨在する共同体として、歩みを進めていくのです。

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