「見捨てられる神の子」
2023年4月2日主日礼拝説教梗概
マルコの福音書 15章33~39節
説教:安藤友祥主任牧師
十字架で苦しまれるイエス様の姿を、鮮明に描き出しているマルコの姿を私たちは見ます。「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」。ただ、イエス様の嘆きと苦しみの叫びをマルコは書き留めます。神様に私たちは叫ぶように、嘆くように、うめくように祈ります。なぜそのような苦しみの中、私たちは祈るのか?その祈りに神様が答えてくださることを期待しているからです。もし自分の言葉が何の意味もなさずに散っていくならば、祈るという事をしません。
マルコは二回、天からの神様の声を記録しています。いずれも「これはわたしの愛する子」。けれども、今は、天は閉ざされ、沈黙している神様。死の直前、一番苦しいときに、神様に見捨てられる神の子イエス。神様に見捨てられる体験は、祈る事の意味がないと知る体験です。神様が祈りを聞いてくださると、期待することさえも許されない断絶。まさにイエス様はその神様との関係の断絶を十字架の上で体験しているのです。イエス様が初めて体験する神様との関係の断絶。イエス様は、私たちの罪を引き受け、背負われました。イエス様が身代わりとなってくださったという私たちのための救いがここに示されています。
十字架で苦しまれるイエス様の姿に、私たちの罪を見るのです。人間の罪がイエス様を傷つけ殺しました。けれども、十字架の現場にあるのは、その罪を自覚した人間の姿ではありません。十字架の上のイエス様の目の前で、自分には関係ないとばかりにイエス様の事を嘲る人。その人の罪を赦すために十字架の上におられるイエス様。神の子とは多くの人のために命を与えるものなのだと。
「十字架で死んだ救い主」「新しい王」という福音の言葉は、人間の不快感を呼び覚まします。けれども、そこに示された神様の逆転の方法に私たちは目を向けます。私たちが勝利者と呼ぶのは、救い主と呼ぶのは、この世的な勝利者とはかけ離れた王様の姿です。
イエス様が死なれたときに、神殿の幕が上から裂ける奇跡が起こりました。神様と私たちとの隔たりを、イエス様が取り除かれました。神様と私たちとを隔てるものが無くなり、イエス様を通して私たちは神様の御前に出ます。私たちはどうしてお見捨てになったのですか?と叫ぶことが無くなり、イエス様を通して神様と交わることが出来るようになっています。
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