「開かれた目で主を見る」

2023年9月10日主日礼拝説教梗概

ヨハネの福音書9章35~41節

説教:安藤友祥主任牧師

 35節になると、7節以降登場しなかったイエス様が癒された彼の前に現れます。イエス様は彼のことを聞き、探し、見つけ出してくださいました。イエス様はご自分のために迫害される人をそのままにしておかず、探し出して見つけてくださいました。イエス様は癒された彼を見つけると尋ねます。「あなたは人の子を信じますか。」イエス様がここで「あなたは誰を信じて生きるのか?」と言う非常に個人的な、その人の命に関わる質問をされています。イエス様は福音書の中でご自分の事を「人の子」と呼びます。また、これまでもこれから自分がなさろうとしている神様のご計画に関連して使う事が多い言葉です。同時に、ダニエル書には「人の子のような方」と呼ばれる方が登場し、それがやがて来るキリスト預言として人々は信じ、成就を祈っていました。「人の子」と言う言葉を聞いたときに癒された彼はイエス様に答えます「私が信じることができるように教えてください。その人はどなたですか。」その質問にイエス様は大胆に答えます。「あなたはその人を見ています。あなたと話しているのが、その人です」イエス様は真正面から、自分こそが信じるべき、信頼すべき存在であると証しされるのです。そしてこの癒された人はイエス様に信仰を告白し、礼拝します。最初は「イエスと言う方」という認識だった彼は、イエス様への理解が変えられていき、ここではイエス様が信じて礼拝すべき方であると知るのです。

 ヨハネの福音書で誰かがイエス様を礼拝すると書かれているのはこの箇所だけです。ここに9章3節に書かれている「神のわざ」が現れています。ヨハネは読者がイエス様を信じ永遠の命を持つために福音書を書き、その中にしるしを書き残しました。世の光として来られたイエス様と出会い、霊的な目の盲目が開かれる時にその人は、イエス様を礼拝する者へと変えられます。霊の目が開かれてイエス様を受け入れるときに、その人の中で神様の栄光が、命が輝き始めます。

 世の光として来られたイエス様を受け入れるのか、背を向けるのか?イエス様への態度がすでに、その人を裁きの座へと進ませています。信じて新しいのちを受けるのか、自分の霊的盲目を認めずに拒否して、受け入れないという罪を犯してしまうのでしょうか。

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