「イエスに似せられていく」

2023年1月22日主日礼拝説教梗概

コリント人への手紙第二3章18節

説教:安藤友祥主任牧師

「聖霊は、我らに父と子を示し、罪を認めさせ、赦しを与え、我らを新たに生まれさせ、神の子とする。人は、自分の行いによらず神の恵みにより、主イエス・キリストの贖いのゆえに、キリストを信じるただその信仰によって義と認められる。さらに、聖霊は、助け主、慰め主として我らの中に住み、我らを主と同じかたちに造りかえ、我らに御旨を行わせ、世の終わりまで我らとともにあり、我らをキリストとの共同相続人とする。」

救われた者がやがて到達するイメージはイエス様です。イエス様に似たものと変えられることは、同じ本質、特性へと変えられる。行いにおいても似たものとされていくということです。それは聖霊の働きです。

以前の私たちは罪に支配され、自覚なく、罪を犯し続ける日々でした。しかし今は罪とは何を知り、罪を犯さないと言う選択肢が与えられたのです。この選択肢を優先的に選び取っていけるように、いきなりではなく、徐々に、しかし確実に聖霊によって変えられて行きます。

聖化のみわざは、神様からの超自然的なみわざであり、私たちのわざによってではありません。ただ救われた後、聖化の過程の中で、私たちも意識、努力すべきことがあるのです。まず聖霊が働いてくださるゆえに、人間側の努力が可能になり、聖化が達成されていくのです。

聖化の完成はこの世に生きているうちは到達できません。ですが向かうべき目標としてイエス様が完成した状態を示されています。

聖化を考えるときに、私たちは救われてなお、変えられるべき点があることに気が付きます。聖化とは、神様によって変えられていくという経験です。この地上では完全にはならないゆえに、私たちはそれぞれが今まさに神様に取り扱われている最中だという視点が与えられます。私たちは「きよめられなさい」と誰かに言うのではなく「きよめてください」と自分のことを祈る事へと目を向ける。きよめられるべき事に気付かされ求めていく歩みです。そんな私たちを神様は愛のまなざしで見つめ、取り扱ってくださいます。私たちは今なお、聖化の真っただ中にいます。それは今よりも、もっと神様の目に良いものとしていただける。その恵みの中に生きていると言うことです。

引用箇所:ロマ6:6~7、ロマ7:19、ロマ6:19、Ⅰコリ9:27、Ⅱコリ7:1、ロマ6:17~18、ヨハネ8:31~32

投稿者プロフィール

setachu
setachu
説教梗概

前の記事

「目を塞ぐ梁」
説教梗概

次の記事

「行いを伴う信仰」