「神のことばに聞くこと」
2021年3月28日礼拝説教梗概
聖書:テモテへの第二の手紙 4章1節~4節
説教:安藤能成主任牧師
本日から主イエス・キリストの受難週に入ります。使徒パウロが4章1節で「キリスト・イエスの御前でその現れと御国を思いながら」と語っているときに彼はダマスコへの途上で出会ったキリストのことを鮮明に覚えていたことでしょう。私たちは聖書により聖霊の示しによってイエスがキリストであることを信じる者となりましたけれども、彼は直接目撃したのです。その現れを思いながら、みことばを宣べ伝えなさいと語っているのはとても重みのあることだと思います。神のことばを語り、また聞くということはそれほど重いことだということです。
ある人は説教を聞くときに恵まれることを期待します。もちろんそれは良いことです。しかし神のことばは常に心地よいものではありません。ときには心を探られて悔い改めが迫られることもあります。しかし神のことばは聞いてそれに従うことによって恵みを受けます。ですから説教者が聖書から何を語っているとしても聞くことが必要です。また説教者も語る者であるとともに聞く者であります。ですから語らなければならないことが自分は出来ないと思っても、やめてはいけないのです。そこに説教者の厳しさがあります。聖書は言います。「時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。忍耐の限りを尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい」と。
神のことばを語る説教の役目は、モーセが荒野でイスラエルの民を率いて約束の地に導くために働いたことに似ています。荒野は目的地ではなく行き着くまでの行程でした。ヨルダンの向こうにあるカナンが目的地でした。私たちは天の御国に至る道を歩む神の民です。そこに至るまでには荒野のような危険や誘惑もあります。ですから説教は神の民とされた私たちにとって大切な役目を持っています。「聖書はすべて神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練のために有益です」とあるとおりです。
私たちが進む道はどのようになって行くかはわかりません。しかし神に信頼して、そのみことばを聞いて歩む道は確かだということです。