「心のきよい者の幸い」

2021年2月21日礼拝説教梗概

聖書:マタイの福音書 5章8節

説教:安藤能成主任牧師

「心のきよい者は幸いです。その人たちは神を見るからです。」(マタイ5:8)

 主イエスが語られた心のきよい者とは宗教的、律法的に聖いということよりも、一人の人間としてどのようにあるのかということに視点が置かれていると思います。主のみもとに集まってきた群衆は、律法的な意味で聖さを求められるなら恐らく自分は歓迎されていないと思ったでしょう。群衆の中には取税人や身を窶した女性たちもいたと思います。聖さとは反対の側にいる存在であることを自覚していたと思います。その自分を偽れないのです。そこを主イエスはきよい、ピュアなところと見ておられたのではないでしょうか。もしも律法的に聖いというならばパリサイ人律法学者は自分たちがふさわしいと思ったでしょう。確かに取税人や遊女はユダヤ社会では歓迎されない人々でした。なぜヨハネや主イエスのものとに来ることができたでしょうか。主イエスはラビと呼ばれる教師ではありませんけれども認められた存在でした。しかし律法学者たちのようではなかったので、人々は何とかして神にすがりたいと思って集まってきたと思います。
 そのような人々に向って「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい」と招かれました。
 次に「心のきよい者は、神を見る」ということについて。当時、人としてのイエスを見た人々は多くいました。しかしイエスを神として見ることができたのは僅かでした。トマスは復活の主イエスを見たときに「私の主、私の神よ」と告白しました。
 さらに主イエスのことばは御国への招きと捉えることもできます。主イエスは「悔い改めて子どもたちのようにならなければ決して天の御国にはいれません」と言われたからです。
 いったいだれが聖なる神に会うことができるのでしょうか。ただキリスト・イエスの贖いによる救いに与る以外にはありません。そこだけに希望を見出すことができます。

投稿者プロフィール

setachu
setachu
説教梗概

前の記事

「礼拝者への招き」