「知恵を求めよう」

2022年1月30日礼拝説教梗概

聖書:ヤコブの手紙1章5~8節

説教:安藤啓子牧師

今日はなぜ「知恵」が与えられると、試練に耐えられるのかをご一緒に見ていきます。まず私たちが成熟したキリスト者となるためには、知恵が必要となります。私たちが信仰をもつ者としての日々の歩みをなすとき、周りにある世の常識や価値観に流されそうになったり、または自分の知識や経験では、最終的にどうしたらいいのか分からないことだらけです。そのような時に神様のお心は?イエス様ならこの様なときどうなさるのか?を判断し、実行できるために知恵が必要なのです。
 この知恵は、実践的な神の賜物であり、神様に従う者の人生に方向性を与え、神様の意志に対する”洞察”と、それを人生に適用する方法も与えます。そのような神様の知恵には、私たちが考える以上の最善の道が備えられています。私たちが試練に会い、どうしたらいいのかわからず八方塞がりになったとき、迷わず真っ先に、神様に知恵を与えて下さるように願うのです。神様は必ず与えて下さるお方です。でも、そこには一つの条件があります。
 心の中で疑わずに信じること。このような信仰を求める神様は、私たちがそのように求めることが出来るように、必ず助けて下さるお方です。
 それなのに、私たちが「信じます。お願いします」と言っておきながら、心の中で、「でも無理かも…。どう考えてもできるわけがない」と思っているとしたら、それは半信半疑ということであり、主から何かをいただけると思ってはなりません。
 信じるとは疑わないことです。時として風に吹かれて翻弄され、波のように揺れ動く二心を抱く不安定な私たちに、「しっかりしなさい、恐れることはない、わたしだ」と目を覚まさせてくださるのが私達の救い主イエス様なのです。疑わずに求めてよいお方、疑う余地を与えられないお方が私達の主なのです。
 神様への素直で偏りのない信仰があれば、知恵は謙虚な信者に惜しみなく与えられる神様の賜物です。さあ、ご一緒に「神様からの知恵」を祈り求め、更に神様を信じる信仰を働かせて、試練の中でも希望を持って主と共に歩んでまいりましょう。

投稿者プロフィール

setachu
setachu
説教梗概

前の記事

「試練にあう時は」
説教梗概

次の記事

「光の子として」