「ここに愛がある」

2024年3月24日礼拝説教梗概

聖書:マタイの福音書 27章45~50節

説教:安藤啓子牧師

 

 私たちすべての人の罪の赦しと魂の救いのために、イエス様がどんな道を通られたのでしょうか。ゲッセマネの園でなされた祈りを見ると、イエス様は、まことの神にして同時に私たちと同じように痛み、苦しみ、悲しみ、恐れを感じる真の人でもいらっしゃるお方。ですからイエス様ご自身も、十字架の死を前に悶え苦しまれたのです。そしてご自分の思いを「わが父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせください」と、魂の苦闘を率直に父なる神様に訴えられたのでした。この「杯」とは、神様の憤りを意味する十字架の死です。それは罪を知らないイエス様が、罪に対する神様の憤り、怒り、呪い、さばきを一身に受けること。だから父なる神様との霊的断絶を味わう事になるのです。これまで絶えず父なる神様との交わりに生きて来たイエス様にとって、それはどれほど恐ろしい苦しみであった事でしょうか。しかしイエス様の祈りは過ぎ去らせてくださいで終わりませんでした。ご自分の願いを押し通さず、「わたしが望むようにではなく、あなたが望まれるままになさってください。」と、父なる神様のみこころを第一とされました。

 次に、十二時から午後三時まで闇が全地を覆ったとあります。一体そこで、何が起こっていたのでしょうか?イエス様は木にかけられ呪われた者となり、さばかれ、父なる神様から捨てられていたのです。イエス様は罪を犯しませんでしたが、イエス様を十字架にかけた人々の罪のために、身代わりとなって神様のさばきを受けられたのです。イエス様は父なる神様から引き離され、捨てられた暗黒の孤独の中で嘆き苦しんでいたのでした。イエス様の身代わりの十字架の死が、私達の罪を赦すため。そして、神様の赦しとあわれみの中で、新しくキリストに似た者として私たちが作り変えられる恵みに与れること。イエス様の十字架は、ただ苦しまれたという出来事ではなく、私たちを赦すための、そのための苦しみであり、十字架であったと再確認しました。

 今日から十字架に架かられるイエス様のご受難を覚える一週間が始まります。イエス様を身代わりとして救い出して下さった、神様のあわれみを感謝し、与えられた赦しを思い起こし、また赦しを体験しつつ、主とともに歩んでまいりましょう。

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setachu
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