「愛する方にあって」
2021年6月6日礼拝説教梗概
聖書:エペソ人への手紙1章3~14節
説教:安藤友祥主任牧師
6節に書かれている「愛する方」という表現。神様が愛されている方。その方にあって私たちに与えられているもの。それはその愛する方が流された血によって私たちが贖われているという事実です。神様のなされる贖いを理解するためには、旧約聖書に目を向けなければ出来ません。神様が贖いという言葉を使われるのが最初に出てくるのは出エジプト記6章6節です。贖いのわざ、解放のわざは神様自身のみわざです。贖いとは本来の所有者の所ではないところに置かれたものを、本来の所有者の元に取り戻す出来事です。血と聞くときに、過ぎ越しの出来事を思い起こします。門に塗られた子羊の血が目印となり、裁きが過ぎ越された体験。イエス様の十字架で起こった出来事は、この過ぎ越しの出来事と、贖いの出来事が重なっています。十字架でイエス様の血が流された結果、旧約律法では実現できなかった罪の奴隷からの解放を経験しました。イエス様はマルコ10:45にあるように、自分自身が人々の贖い、解放のために必要な犠牲だと分かっておられました。私たちが受けているイエス様の血によって実現した贖いは、信じた時の罪の奴隷からの解放だけではなく、最終的な神様の裁きからの救いも関連しています。イエス様の流された血で起こった出来事は、過去、現在、未来に亘って私たちに与えられる恵みでした。神様は裁く神であると同時に、贖われる神様であることを覚えておきたいのです。神様は見捨てたり、見放したりする神様ではなく、旧約の時代も、新約の時代も変わらずに贖われる神様なのです。そして究極の贖いの実行をされる時に、愛する独り子であるイエス様を通して贖いを行われました。私たちの根本にある罪の問題の解決。それはイエス様の血でしか救えないという事実の重さがあります。道徳的努力や知的努力、宗教的努力では自分を救えません。愛する者を犠牲にして迄、実行された贖い。罪の奴隷、死の支配から解放し、神様に従う者として、いのちを持つものとして生きる本来の道への回復を与えて下さったのです。そして、そのように私たちが生きる事を通して、贖い主であり創造主である神様の栄光が現され、ほめたたえるのです。
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