「私の愛する方」

2022年10月9日主日礼拝説教梗概

ピリピ人への手紙 2章6~11節

説教:安藤友祥主任牧師

「主イエス・キリストは、父なる神のひとり子であって、聖霊によって宿り、処女マリヤより生まれたまことの神にしてまことの人である。主は我らに代わって十字架にかかり、死んで葬られ、よみにくだり、三日目に死者の中からよみがえり、我らのために贖いを成し遂げ、我らに永遠のいのちを与えた。主は2天に昇り、父なる神の右の座に着き、大祭司として今も我らのために執り成している。」

 イエス様は私たちの為に十字架にかかってくださいました。神様が、人となり、地上で歩み、十字架で死なれた。多くの侮辱、辱め、暴力や裏切りを体験し、死の直前には天も閉ざされ、真の孤独と苦しみの中死なれた。本来ならばあり得ない出来事が、確かに起こったという事を私達は告白します。イエス様の死の理由は、私達が持つ罪の問題のためです。神様との関係を壊し、死と罪の悲惨、支配の中に囚われている私達を救うために、イエス様は十字架で私達の身代わりとなって死なれたのです。イエス様が苦しみの果てに死ななくてはならないほどの罪の悲惨さを十字架の出来事は私達に直視させます。この十字架の出来事は、「宥め」そして「贖い」という出来事に関連します。

 イエス様が十字架の死で終わってしまうならば、「神様も死には勝つことが出来ない。」そのように絶望は変わらなかったはずです。けれどもイエス様はよみがえられたと私達は告白します。贖いの出来事は、罪の赦しに留まらず、神様との関係の回復。神様の愛の中、永遠に共に生きる永遠の生命が与えられたと告白します。神様がまず愛してくださった。愛されないはずの罪でまみれた世を、私達を神様は愛してくださった。愛ゆえに、御子を惜しまずに与えて下さった。御子のいのちを持って救うほどまでに、「私達を愛している。」「あなたには愛する価値がある」と神様は私達に語ってくださいます。

 イエス様は、今も、神様の右の座におられ、完全なる大祭司として私達をとりなしていてくださっています。私達と神様の間に入る事が出来る。それだけではなく、取り持つことが出来る方はイエス様しかいません。

 私達は同じ命がけの愛で愛されている共同体です。イエス様が苦しみを体験してまで私達を愛し救ったのは何のためでしょうか?この世界の中で神様を愛し、礼拝し、救われた者として生きて神様の栄光を現すためです。

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