「信仰義認」
2023年1月8日主日礼拝説教梗概
ガラテヤ人の手紙2章16節
説教:安藤友祥主任牧師
「聖霊は、我らに父と子を示し、罪を認めさせ、赦しを与え、我らを新たに生まれさせ、神の子とする。人は、自分の行いによらず神の恵みにより、主イエス・キリストの贖いのゆえに、キリストを信じるただその信仰によって義と認められる。さらに、聖霊は、助け主、慰め主として我らの中に住み、我らを主と同じかたちに造りかえ、我らに御旨を行わせ、世の終わりまで我らとともにあり、我らをキリストとの共同相続人とする。」
「義」とは神様と人との正しい人格的交わりの基礎にあるものです。神様の意思に沿って生きる事は、神様の義に叶うと認められます。義認とは自分の外側にある基準、神様によって義であると判断され、義であると宣言される出来事です。それは私たちの功績ではなく、ただ神様の自由。神様の決定。神様の恵みとしてなされます。義認の主導権は、神が握っています。
信仰義認の教理は、この罪人である私たちが、神様の前に義とされる、義であると宣言される出来事です。罪人であるのに、なぜ神様の前に義とされるのか。実際には義では無い人間に、義である方の義を、その罪人の義として認める。転嫁する事によって初めて罪人が義と宣言されるのです。イエス様が私たちの義となってくださったのです。
私たちが信仰を持つことが出来たのも、義とされることも、神様からの一方的な恵みであり、賜物です。私たちが義とされていること。その根拠は、すべて私たちの外側で起こっていることです。私たちの内側には義とされる根拠や理由はありません。すべて神様が与えてくださっている恵みです。
義認は一度限りの神様の宣言です。神様が「義である」と宣言された事は、取り消されることなく、誰にも奪われません。
キリストによって私たちは、神様の前で「あなたはそこにいてもいいのだよ」と言っていただけているのです。義認とはキリストによって、神様に私たちが受け入れていただけることです。義とされているならば、神様によって受け入れられている自分がここにいるのです。
救われたとき、義と宣言されたときに自分の中にあったのは、神様からの働きかけで起こされた悔い改めとイエス様への信仰しかありませんでした。何か整ったから、到達した結果の宣言ではありません。こんな私を義としてくださる神の恵みと憐れみに触れたのです。
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