「良くなりたいか」
2023年6月4日主日礼拝説教梗概
ヨハネの福音書 5章1~18節
説教:安藤友祥主任牧師
祭りの時期にエルサレムに現れたイエス様は、ベテスダの池と呼ばれる場所に行き、38年病の人を癒します。ベテスダの池には、水面に変化があったときに最初に池に入ると癒されるという伝承がありました。ただこの伝承。「神様は早い者勝ちの人を癒す」という誤った神様理解を与える伝承とも言えます。
イエス様に「良くなりたいか」と声をかけられた彼は、「良くなりたい」と答えるのではなく、誰も自分を運んでくれないと不平不満。癒されないことの責任転嫁と思える発言をします。イエス様は彼に「立って、床を取り上げ、歩け」と三つの命令の言葉をかけるとともに、癒しを与えられました。
イエス様がこの奇跡をおこなわれたのは安息日。当時、安息日にしてはいけない事柄が細かく定められており、床を運ぶことは違反行為でした。ユダヤ人に詰め寄られる彼は、床を運んでいるのはそのように自分に言った人がいるからだと、またしても責任転嫁をします。
イエス様がされた「良くなりたいか」と言う問いかけ。イエス様は肉体の回復だけでなく、霊的な回復も視野に入れられていました。けれども彼はイエス様のことを密告し、自己保身に走りました。この出来事をきっかけに律法学者たちがイエス様を憎み、迫害するようになります。
罪とは恐ろしいものです。今日出てきた病気の彼も、ユダヤ人たちも罪の支配の中にいます。けれどもそれが当たり前になってしまっていました。自分が罪の中に居る事さえも分からなくなってしまっている。病だった人は、誰かのせいにしたい責任転嫁の罪の中にいました。ユダヤ人たちは自分たちが正しく、それとは違う人は裁いてしまう偽善の罪の中に。
イエス様はどうだったのか。罪の支配の中にある人たちに対してイエス様は誰よりも自由でした。イエス様は力強く、ユダヤ人に詰め寄られても堂々としている。私たちの救い主はハッキリと確信をもって、周りの顔色を窺うとかでなく、ただ神様だけに従って生きられたのです。本来の神様に従って生きる、愛に生きるというのは誰よりも自由な生き方です。では私たちはどのように生きたいと願うのでしょうか?
イエス様は回復が必要な人に出会ってくださる方です。そして聞かれるのです「良くなりたいか?」と。イエス様からの「良くなりたいか?」どのように答えるのでしょうか?
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