「主よ、教えてください」
2023年9月24日主日礼拝説教梗概
ヨハネの福音書9章1~41節
説教:安藤友祥主任牧師
この箇所に出てくる人々には共通点があります。それはそれぞれみんな、アブラハムの子孫であり、それぞれの立場、あり方で、神様を信じている。従っていると考え、願い、生きている人々です。ですが、そのような共通点があるにも関わらず、ここには意見の一致と言うよりも、イエス様を巡った論争が起こっています。また8章ではイエス様自身との論争が書かれ、8章後半では「イエス様を信じた」と言っていたにもかかわらず、イエス様に石を投げて殺そうとする人々が登場します。
このような箇所を読む時に、私たちはどのようなことを感じ、どのようなことを思うのでしょうか。何より、どのような視点で読んでいるのでしょうか?私たちは聖書を読む時に、そこに自分を重ねて読むこともあります。この箇所を読む時にパリサイ人達に重ねるというよりも、目が開かれた彼に重ねて読むことが多いのではないかと思います。すでにクリスチャンとなっているならば、イエス様と出会い、目が開かれて信じることが出来た。イエス様を主と告白している。そのような理由もそこにあるからです。けれども、結果として自分はわかっている。知っている。従っていると並べてみるときに、ここに出てくるパリサイ人達も同じような立場や視点であったことを思うのです。
パリサイ人達は目が癒された人との対話の中で、イエス様を罪人と断言し、否定しました。癒された彼の言葉に耳を貸さず、彼からは教えられることはないと否定しました。9章を読む時に、そんなパリサイ人と癒された彼の対比が浮き上がります。癒された彼はイエス様に再会し、人の子を信じますか?と聞かれたときに、信じられるように教えてくださいと言う事が出来ました。彼は確かに霊の目が開かれ、イエス様が神様から送られた方だと理解していました。けれどもなお、自分はわかっていない。教えてもらう必要があると謙遜に聞くことが出来ました。
私たちは「わかっている。」「知っている」となりがちです。37節でイエス様がおっしゃるように、見えるようにするためにイエス様は来てくださいました。いつまでも謙遜に、教えてください、見えるようにしてくださいと言えるものとしてイエス様の前に出て行きましょう。
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